★ もっと重要なことは、訓読みによって、漢字は日本語の内部に吸収されながら、同時につねに外部的なものにとどまるということである。たとえば、漢字で書かれたものは、外来的で抽象的なものだと見なされる。そのことは、明治以降の日本のエクリチュールにおいてより複雑になる。最初、西洋概念は漢字に翻訳された(略)が、同時に、カタカナで表記するという方法が用いられたのである。カタカナは仏典など漢文を読むための補助として用いられてきたので、外国語を表示するのに向いていたといえる。
★ 現在では、西洋概念が翻訳されることはめったになく、ほとんどがカタカナで表示される。外来語は、話されているときには外来的であることはさほど意識されないが、書かれるときはカタカナによってその外来性が明示される。(略)つまり、漢字やカタカナで表記されるかぎり、外来的なものの外来性が、どこまでいっても保存されるのである。先に述べたように、和辻哲郎は、日本においてかくも深く浸透した仏教がいつまでたっても「外来思想」のままであることに注目したが、その理由は簡単である。日本では、仏教は漢字とカタカナとして存在しているからである。
(ラカンが日本に関して述べたことをふまえて)
★ そこで、ラカンが提出したのは、抑圧と区別されるものとしての「排除」という概念である。それは原抑圧の排除、言い換えれば、去勢の排除である。去勢は、抑圧によって主体を作るが、同時に神経症的なものがそれにつきまとう。他方、去勢の排除は、主体を充分に構成せず、精神症(分裂病)的なものをもたらす。
★ いうまでもなく、ラカンがいう「去勢」とは、象徴界、つまり言語的世界(文化)に参入することである。ところが、そこに入りながら、同時に入らない方法が、訓読みなのである。日本で生じたのはそのような去勢の排除である。おそらく「日本的」ということがあるとしたら、ここにしかない。多くの日本人論が、肯定的であれ否定的であれ、指摘するのは、そこに確固たる主体がなく原理的な機軸がないということである。それは神経症的ではないが、ほとんど分裂病的である。
★ 漢字・仮名・片仮名の3種のエクリチュールは、現在の日本で存在し機能している。それは「日本的なもの」を考えるにあたって最も核心的なものである。私が斥けるのは、文字使用という歴史的な形態を見ずに、心や思想や文化なるものを本質的に想定してしまう、さらに、外国との関係を捨象して自己同一性を想定してしまう観念論である。
(芥川龍之介『神々の微笑』と河合隼雄『母性社会日本の病理』を引用して)
★ それは、日本には抑圧がないということである。だが、それはこの社会が自由であることをいささかも意味しない。ラカンはそれについて述べているわけではない。しかし、われわれはむしろ、「抑圧」がもたらすエディプス的な権力とは違った、いわば「排除」がもたらす権力について考えなければならない。
(1959年に日本を訪問したヘーゲル学者コジェーヴを引用して)
★ コジェーヴは、アメリカの大衆社会から日本の江戸時代に眼差しを向き変えた。一見すると、それは現代日本を無視しているように見えるのだが、彼の見通しは予見的であった。というのは、それから20年後に日本のバブル経済において顕在化したのは、江戸時代の三百年の平和の中で知性と道徳性とを嘲笑しつつ洗練してきたスノビズムの再現だったからである。明治以来の日本の近代文学や思想はそれを否定し、いわば自律的な「主体」を確立することに努めてきたといってよい。ところが、1980年代に顕著になってきたのは、逆に「主体」や「意味」を嘲笑し、形式的な言語遊戯に耽ることである。近代小説に変わって、マンガやアニメ、コンピュータ・ゲーム、デザイン、あるいはそれと連動するような文学や美術が支配的となった。それはアメリカで始まった大衆文化をいっそう空虚に、しかしいっそう美的に洗練することであった。日本のバブル経済はまもなく壊れたが、むしろそれ以後にこのような大衆文化がグローバルに普及しはじめたのである。その意味で、世界はまさに「日本化」しはじめたように見える。
★だが、それは、グローバルな資本主義が、旧来の伝統志向と内部志向を根こそぎ一掃し、グローバルな他人志向(注;他人に承認されたいという欲望)をもたらしていることを意味するにすぎない。そこでは、「抑圧」にもとづく集権的な権力、あるいは知識人の権力は衰微している。だが、それは権力の消滅なのではない。「排除」による権力がグローバルになりつつあるということを意味するだけである。それに対抗することは容易ではない。そもそもそのような権力があるということに気づくことが難しいのである。だが、日本の事例はその手がかりを与えると、私は考える。そして、それは日本を手がかりにして「歴史の終焉」(注;フランシス・フクヤマ)を考えるのとは、まったく逆のことである。
<柄谷行人;“文字の地政学―日本精神分析”-『岩波・定本柄谷行人集4ネーションと美学』2004>