Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

文学とは何か

2010-01-23 14:24:05 | 日記


<文学とは何か>という“問い”は現在、ほとんど無効である。

つまり現在の読者が、自分が小説や詩を<選ぶ>ときに、“これは文学か?”などとは問わないわけだ。

この事態を“わかりやすく”説明すれば、

<夏目漱石>や<太宰治>は、“すでに”文学なのだが、<東野圭吾>や<伊坂幸太郎>や<高村薫>や<桐野 夏生>は文学なのか?、という問いである。

<三島由紀夫>や<大江健三郎>は、“すでに”文学なのだが、<村上春樹>や<阿部和重>や<青山真治>は文学なのか?

つまり、<そういうことを問わない>のである。

これは、“ジャンル解体”とか、“権威づけの否定”として、良いことだと思われている。
ほんとうにそうか?と問う。

だから、ぼくはイーグルトンの『文学とは何か』を読み始める。
この本はイギリス人が書いたので、当然、そこに例示されるのが“イギリス文学”であるという疎遠さがあっても。

しかし、ぼくは“文学とは何か”という<定義>を求めているのでも、<文学>を定義して、“文学でないもの”を排除したいのでもない。

ただ単に<文学とは何か>を考えたい。

この<問い>は、むしろ現在、<映画とは何か>と問う方が、“刺激的”である。

最近もあるブログで、フェリーニの「道」を見たひとが、平然と“フェリーニの代表作「道」”と書いていた。

しかし、「道」はフェリーニの初期の1950年代の作品である。
フェリーニはその後もたくさんの映画史に残る傑作を撮っている(1990年まで)
ぼくにとってフェリーニは、まちがいなく映画史上の5人に入る監督である。
しかし現在において、ぼくはフェリーニの作品のなかで「道」を見たいとは思わない。

たぶん先のブログを書いたひとも、“フェリーニの代表作は「道」である”という<通念>(常識)を書いただけである。
そういう<意味>ではこの書き手に<罪>はない。
しかしこのような<無為意識の通念>こそが、対象(この場合は<映画>)を見えなくする。

この<見えなくする>というのは、言い回しではなく、<文字通り>である。
つまり、いくら映画を見ても、なにも“見えない”ことを意味する。

ぼくは有名監督のフィルモグラフィーを知識として蓄えよ、などと言っていない。
ぼくは1950年代から映画を“見てきた”。
だから60年間の蓄積が(自然に)あるだけである。

<映画とは何か>
<文学とは何か>
<ミステリーとは何か>、<ホラーとは何か>、<サイエンス・フィクションとは何か>、<ハードボイルドとは何か>……
<音楽とは何か>
<ロックとはなにか>、<POPSとはなにか>、<ブラック・ミュージックとは何か>、<ジャズとは何か>、<クラシックとは何か>、<民俗音楽とは何か>……

と問うことは、ムダではないと思う。

それはやはり、“これまでつくられてきたもの”の<歴史性>を問うことである。
これまでの<作品の>おびただしい蓄積の<なかで>、<現在の作品を見る>ことである。

自分の“目前にあるもの”に条件反射的に一喜一憂するものは、やはり進化しそこねた猿である。






<引用>

★ ならば、バナナが好物だということは、純然たる私事(わたくしごと)であって社会的利害に左右されないと言えなくもない。だが、これにしたところで、問題はある。私の食物嗜好を徹底的に分析すれば、私の嗜好が、人格形成期である幼年時代の体験や、私の両親、兄弟姉妹と密接な関係があること、いやさらに、他の文化的要因、それもさながら鉄道の駅のごとき社会的かつ「非主観的」な文化的要因とも大いに関係があることがわかるだろう。このことはさらに、信念の基本構造、興味の対象となるものの基本構造にもあてはまる。たとえば、人間は健康を保つように心掛けるべきだとか、性的役割の違いは人間の生物学的事実にもとづくものだとか、人間はワニより重要な存在だとかいう信念がそれで、私がある特定の社会の一員として生まれたということは、そのような信念の中に生れ落ちたということにほかならない。

★ 文学を「客観的」記述が可能なカテゴリーとみるのはよろしくないとしても、では、人々が気まぐれに文学と呼ぶものを全部文学と呼べばよいかというと、そうでもない。その種の価値判断に気まぐれなところなど毛頭ないからだ。価値判断の根は信念の深層構造の中にあり、その信念たるや、揺るがざることエンパイアー・ステート・ビルディングのごとしといった趣を呈している。

★ そこでこれまで明らかにしたことをまとめておけばこうなるだろう。文学は、昆虫が存在しているように客観的に存在するものではないのはもちろんのこと、文学を構成している価値判断は歴史的変化を受けるものである。そして、さらに重要なことは、こうした価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係しているということだ。イデオロギーとは単なる個人的嗜好のことを指すのではなく、ある特定の社会集団が他の社会集団に対し権力を行使し権力を維持していくのに役に立つもろもろの前提事項のことを指す。さてこれが、あまりに突飛な結論だ、私の個人的偏見だと考えるむきもあろうかと思われるので、では次にこのことを、英国における「文学」の誕生を語りながら、逐一確かめてみることにしよう。

<テリー・イーグルトン『文学とは何か』序論(岩波書店1997)>




宣伝

2010-01-23 12:33:51 | 日記


ちょっと迷ったが、<宣伝>する。

今日産経新聞朝刊(妻が入手した多摩地区版では18面)に、<パーキンソン病 もっと知って>という特集記事がある。

この左方に<パネル討論>というのがあり、そこにぼくの妻及びその夫(笑)の発言がある。

ぼくはこのことを、すでにこのブログに書いたと思う。

ここでのぼくの発言は、準備されたものではなく、咄嗟に出たものである。

この記事では、ぼくの発言は、“6行半”であるが、その時ぼくが、それ以上長くしゃべったわけでもない。

だから、この<発言>のあと、ぼくは自分が言った<自然なこと>ということを、考え続けることになった。

<産経新聞>というメディアは、“われわれ”(妻とぼく)が“選んだ”のではない、念のため。




依存症;黙れ、バカども

2010-01-23 12:20:21 | 日記


昨日アサヒコム・アクセス数1位は;“タイガー・ウッズがセックス依存症治療 米メディア”。

つまりこの記事を多くのひとが“読みたい!”と思ったのである。

で、ぼくも読んでみると、こういうことが書いてある;

《ニューヨーク・ポスト紙によると、昨年12月末から治療を開始し、6週間の予定で施設に滞在。毎朝5時半に起床、医師らとのカウンセリングを中心に1日約8時間の治療を受けている。現在別居中で、離婚がうわさされている妻のエリンさんと対面し、どのような方法や気持ちで家族を裏切ったのか、などを説明しなければいけない治療プログラムもあるという。》(記事引用)

これを読んで、あなたは満足か?なにか“わかった”だろうか?

《離婚がうわさされている妻のエリンさんと対面し、どのような方法や気持ちで家族を裏切ったのか、などを説明しなければいけない治療プログラム》

???(笑)

《どのような方法や気持ちで家族を裏切ったのか》

???????????????????????

さて<教訓>は、なんでしょう?

<依存症>ですよ。

こういう記事を“生かす”ためには、“自分は何の依存症なんだろう?”と、<自己への問い>へと展開すべきだね。

つまり“自分は<家族>に依存しているのではないか?”という<問い>。

<家族>というのは、実際の<自分の家族関係>ということだけでは、ない。

<家族>という<イデオロギー>ですよ。
<イデオロギー>というのは、“自然じゃないもの”を意味します。
すなわち<家族>も“自然状態”ではありえないし、ましてや<家族をめぐる言説>は自然状態では“ない”のです。


あるいは、
たとえば、<有名人依存症>とかさ。
<民主党政権=小沢・鳩山に関する言説依存症>とかさ(つまり読売・産経新聞のような)

つまり自分が<悪口を言う対象>依存症。

つまり、<対象>をバッシングしても、褒めても、どっちもその対象に<依存>しているのね。

たとえばブログやツイッターなどの<新メディア>が、新聞・雑誌・テレビなどの<旧メディア>を<批判>する<構造>そのものが、<相互依存>さ。

つまり現在問われるのは、<批判機能>さ。

味噌が糞を“批判”しても、<屁のつっぱりにもならん>ということ。

つまり現在ニッポンの“あらゆる言説”に、どうしょうもない<肥溜め化>が進行していますね。


そしてみんな<依存症>になった。

すこしは<だまって>考えたら。

すこしは<だまって>考えよう。