Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

世紀を越えた本

2010-01-25 11:49:41 | 日記


1冊の本がある、文庫本である(実際は“上、下”の2冊本である)

この本の原著がフランスで刊行されたのは、1972年だった(増補版1975年)

この本の翻訳者宇野邦一は、この本の新訳・文庫化に際して、“世紀を越えてこの本が生き延びる理由”という後書を書いている。
この本はジル・ドゥールーズとフェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』(河出文庫2006)である。

正確な記憶はないが、ぼくがドゥルーズやフーコーやデリダなどの名を知ったのは、1970年代に発刊された雑誌“エピステーメ”でだった。
この雑誌が刊行されてからしばらくたって、書店でぼくはこの雑誌に気づき、バックナンバーを取り寄せたと思う。
さらにこの雑誌の“前身”ともいえる“季刊パイデイア”の“特集<思想史>を超えて―ミシェル・フーコー”を入手した、この特集号は1972年の刊行である(いま手元にある)

たぶんぼくは当時、ル・クレジオの翻訳者であり、評論家であった豊崎光一氏(はやくに亡くなった)に“反応”したのである(この特集号には豊崎光一“砂の顔-アルシーヴと文学”が掲載されている)
そして雑誌“エピステーメ”を通じて、蓮実重彦や浅田彰を知ることになる。

エピステーメ創刊準備号(1975)の表紙にはこうある;《思考の大地に 大いなる亀裂よ走れ!》
この雑誌の“形態”や“レイアウト”も斬新であった。


しかし、それらの<新思想>が、ぼくにすんなり理解されたわけではなかった。
正直に言えば、それは当時“ブランド・ファッション”にときめくような、“知的ファッション”でないことは、なかった。

しかし、じっさいに読む、フーコーやドゥルーズの<原文>(翻訳でだ)もそれについての<解説>も、とてもやすやすと理解できるものではなかった。
そういえば、上記の“出会い”より前にぼくは、現代思潮社から出たデリダ「グラマトロジーについて」は買っていたが、まったく読み進めることができなかった(現在においても;笑)

さて話をドゥルーズ(+ガタリ)にしぼろう。

ぼくはこの『アンチ・オイディプス』の最初の翻訳本(単行本)は買っていない。
高かったからである。
そして『ミル・プラトー』単行本の方を(これも高かったが)買った。
それにもかかわらず、『ミル・プラトー』を読んでもまったく理解できなかった。
その本を何年も放置したあげく、退職したときの大整理で、二束三文で処分してしまった。

当時(2003年)、ぼくは、もっと身についた(自分の身の丈に合わせた)読書をしよう、と思ったらしい。
しかし会社を辞めたあとの比較的時間があるなかでの“読書連鎖”のなかでも、フーコーやドゥルーズは気になり続けてきた。

だから『アンチ・オイディプス』の文庫本での刊行は、ぼくにとって<事件>だったのだ。
2006年、この文庫の刊行直後にぼくはこの本を買い、当時のDoblogにもそのことを書いたと思う。

にもかかわらず(笑)結局、現在にいたるまで、この本を読み進んでいない。
もはや、この文庫本が刊行されてから3年以上が経過した。
いまこそ、<この本>を読もう。


宇野邦一氏の後書の最初を引用しよう;

★ 刊行後30年以上たち、すでにドゥルーズもガタリも地上の人ではなくなったいま、『アンチ・オイディプス』を新たな訳で、文庫として出版することの意味はなんだろうか。もちろん、どのような読み方も拒むわけにいかないけれど、訳者にとって、それは決してあの熱い思想の時代を<回顧する>ためではない。

★ 確かにこの本は、フランスが、世界が、社会革命、文化革命をめぐって大きく揺れ、何をどう変えるかについての議論が沸騰した時代の痕跡を凝縮している。それはとりわけ、あの時代の欧米に強い影響を及ぼした<精神分析>を激しく批判する書物として知られている(それなら<精神分析>がまったく定着しなかった国で、それはまったく無意味だろうか)。また欲望それ自体がもつ革命性を擁護する書物としても知られている(それなら革命の課題など見えない世界では、それは無意味だろうか)。

★ 同時代の課題と意識の揺れに機敏に応えようとしたことは、この書物の特筆すべき長所であるにちがいない。しかし同時代の問題に応えるのに、同時代の展望をはるかに超える展望の中に問題を位置づけて応えたことが、やはりこの本の特徴であった。それゆえ、30年以上を経て、いまこの本を読み直すこと、新たに訳出することは、この本が30年をのりこえて、今の世界に何をつたえてくるかを検討する機会でもある。かつての問題意識の切実さ、親密さ、性急さから読みとれたものを離れて、少し遠い距離から、その距離を越えて届いてくるものが何か確かめることでもある。

★ 『アンチ・オイディプス』は(略)まるで世界史全体を包括しようとするような大それた野心的試みに見えるけれども、そうではない。それはやはり厳密な哲学の本であって、思考の対象を包括するよりも、まず思考の姿勢を変えることをうながし、世界を構成する様々な次元を貫通する問題提起をおこなっている。その思考は、実に様々な領域に触れるが、決して包括的にではなく、横断的に、多領域にかかわろうとするのだ。この違いは重要である。たとえば、アルトーのような<分裂病者>の問題は、ほとんど同時に、経済、政治、歴史、家族、言語、身体、芸術などにかかわるのである。
(以上引用)



《それなら<精神分析>がまったく定着しなかった国で、それはまったく無意味だろうか》

《それなら革命の課題など見えない世界では、それは無意味だろうか》

《それはやはり厳密な哲学の本であって、思考の対象を包括するよりも、まず思考の姿勢を変えることをうながし、世界を構成する様々な次元を貫通する問題提起をおこなっている》





不破利晴への手紙10-01-25

2010-01-25 01:45:07 | 日記


★不破利晴コメント(“不破利晴への手紙・追記10-01-16”に対して);

Unknown (不破利晴)  2010-01-24 23:14:20

このエントリーについてはずっと気になっていました。
今日の自分のエントリーにしたためてみました。




★warmgun返信;

さっき「アバター」のブログを書き終わって寝ちまった(“映画鑑賞”も疲れるね;笑)、そして日付が変わる頃起きて、簡単な夜食を食べ、君のコメントを読み、君の最新ブログを読んだ。

この君のブログだけでも、たくさんのリアクションがありえる。
まず“東京にきたひと”だね。

坂本龍馬を“東京(江戸)に(わざわざ)来たひととして把握するのは、面白い。
ぼくは一度も「龍馬伝」を見たことがないので、これを<批判>できない。
ただし、ぼくはNHK大河ドラマや司馬遼太郎的<歴史認識>を批判する必要を感じている。
とくに近代史。
ただNHK大河ドラマで、ずっと見たのは山田太一「獅子の時代」だけであるので(ひょっとしたら「樅の木は残った」も見たかもしれない、しかしぼくが記憶している「樅の木」は当時の東京12チャンネル版である)批判のしようもない。
司馬遼太郎は、むかし、「竜馬が行く」も「坂の上の雲」も「空海の風景」も読もうとしたが、あの“文体”が嫌いで、どうしても読めなかった(ゆえに批判できない)
だから、<批判>としてではなく、大仏次郎の「天皇の世紀」のような本を読むことによって、“別様の認識”を行おうと思う。

“東京に来たひと”。
ぼくの場合は、親の世代(母とその兄弟姉妹)が、東京に来たひとだった(ぼく自身の生まれも新潟県長岡市)
しかも小学校までを、東京近郊(埼玉県北浦和市)ですごし、小学6年の3学期に杉並区に転校した(この辺は前にも書いたことがあるね)
この東京近郊から東京への移動も、けっして“たいしたことがない”ことではなかった。
“学力レベル”の差があり、“文化レベル”の差があったんだな。
ようするに、たぶん、ぼくは大学にはいるまで、“カルチャーショック”から抜け出せなかったと思う。
ぼくにとって、“東京の子”は、<スマート>だったのさ(笑)
大学に入って、“ぼくより田舎の子”に会った(爆)

<年とって過激化する老人>というテーマは、もちろん、ぼくにとっても新鮮だっただけでなく、<切実>でもある。
これまでも、“そういう老人”はいたかもしれないが、まさに今、“全共闘世代”が老人化しようとしている。
もちろん“全共闘世代”などと呼ばれるものに、なんの実体も“なかった”ということも言える。
あるいは、その<世代>になにかちがったものが(かれらが若いときに)“あった”としても、まさにその世代が、<それ>を忘れ果てたように見える。
しかし、ぼくにも予見できないが、<かれら>が、老人になるとき、むしろ<あったはずがないそれ>を思い出さない、とは言えない(それはかすかな希望である)

しかしまさに<時代>は、君の“世代”の手の内にある。
まさにこの“可能性”が、不破利晴をあせらせ、自分の<無力>を嘆かせている。
<君>の5歳の娘が成人するまでには、15年かかる(笑)
<15年>!
ぼくは、あと15年生きれるか、本当にわからない。
生きても、“頭がもつ”かどうかは、まったく確実でない。

《私はなにが言いたいのだろうか》!

人類の滅亡や資本主義の崩壊が<来る>のだろうか?
ぼくは、そもそもこのような<問い>がまちがっている、と思う。

<人類の滅亡や資本主義の崩壊>というものがあるのなら、それは現在進行している。

そもそも<資本主義>とは、だれも定義(認識)し得ていない“概念=現実”ではないだろうか。
まさに資本主義とは、ヌエのように変幻自在であるというより、必ず変化し続けるものではないだろうか。
まったく“経済学者”は、無能ではないだろうか。

まさに、生存の基盤であり、われわれの生活の“下部構造”である<カネの流れ>とか<生産-流通-消費>とかが、なにひとつ認識されていない(ゆえにコントロール不可能)ではないか。

“神の手”とか“自然性”というのは、なんの<プロジェクト>でもない。
現在の<経済学>は、いかなる“経営指針”を提起しているのか。
<小さな政府>とか<新自由主義>とかいった、なんの<学>でもない偽学問で商売する痴呆症児をいつまでのさばらせておけばよいのか。

あとは<法>ですね(笑)
ぼくは“社会科学”の中心と思われている、“政-経-法”というのが、まったくダメだと思っている、それらの“実証主義”が、まったく無効だと思う。

ぼくは現在までの“改憲論議”は、護憲派も改憲派も、まったくダメだと思う。
そもそも<法>についての、基本的認識-論議がまったくなされていないと思う。
まさに、近代が積み上げてきた<思考-理性>が、決定的に<無力化>してきたと思う。

カオスだね(笑)

<惰性的言説>を教条するものだけが、安泰だ。
彼らは、人類が滅びても、地球生態系が壊滅しても、自分が安泰であればいいだけだ。

つまり彼らの“言説と倫理”は、<人類が滅びても、地球生態系が壊滅しても、自分が安泰であればいい>というロジックのみに依拠している。

このことに気づくとき、<ぼくら>は、怒りと同時に、おびただしい<無力>を感じる。

どこかに<反撃>の突破口はないか。

この<近代理性>の腐敗を、超えるために、まさに、<近代理性>を学ぶ。
基礎の基礎から、“ひとごとでなく”学ぶ。

だからといって、それで飯が食えるのでも、安泰な老後や死が来るのでも、ない。
あるいは、そういう<努力>に自己満足して死ねるわけでもない。

けれども、言葉にすれば大げさだが、<最低の矜持>とでも呼ぶほかないことがある。

これは、<言葉>にすぎない。
無我夢中で生きてきたし、死んでいないなら、無我夢中で死ぬまで生きる。

そういう生き方を、<内的革命者>と呼んでも、いい。







<追記>

君が“誤解”することはないと思うが、ぼくは君に<過激であれ>と扇動しては、いない。

<根源的であれ=ラジカルであれ>と扇動している(笑)

これは、いつも、“自分自身への呼びかけ”でもある、ぼくは“自然態”でなど生きられない、無理をするのだ。

こういうことがツナミンのような“小市民”には決して理解し得ないことである(彼が理解するなら、歓迎する)

ぼくが<ラジカル>という言葉から思い浮かべるのは、<樹の根>である、あるいは<草の根>である(ドゥルーズはそれを<リゾーム>と呼んだ、それは錯綜する関係、横断、越境なのだ)

ぼくは大げさなものや過激のための過激さがきらいだ。
自分の言説が<すべる>なら、自己批判する。

しかし<イマジネーション>は必用なのだ。
空気のように、水のように、草の根にも、樹木の根にも必用なのだ。