1冊の本がある、文庫本である(実際は“上、下”の2冊本である)
この本の原著がフランスで刊行されたのは、1972年だった(増補版1975年)
この本の翻訳者宇野邦一は、この本の新訳・文庫化に際して、“世紀を越えてこの本が生き延びる理由”という後書を書いている。
この本はジル・ドゥールーズとフェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』(河出文庫2006)である。
正確な記憶はないが、ぼくがドゥルーズやフーコーやデリダなどの名を知ったのは、1970年代に発刊された雑誌“エピステーメ”でだった。
この雑誌が刊行されてからしばらくたって、書店でぼくはこの雑誌に気づき、バックナンバーを取り寄せたと思う。
さらにこの雑誌の“前身”ともいえる“季刊パイデイア”の“特集<思想史>を超えて―ミシェル・フーコー”を入手した、この特集号は1972年の刊行である(いま手元にある)
たぶんぼくは当時、ル・クレジオの翻訳者であり、評論家であった豊崎光一氏(はやくに亡くなった)に“反応”したのである(この特集号には豊崎光一“砂の顔-アルシーヴと文学”が掲載されている)
そして雑誌“エピステーメ”を通じて、蓮実重彦や浅田彰を知ることになる。
エピステーメ創刊準備号(1975)の表紙にはこうある;《思考の大地に 大いなる亀裂よ走れ!》
この雑誌の“形態”や“レイアウト”も斬新であった。
しかし、それらの<新思想>が、ぼくにすんなり理解されたわけではなかった。
正直に言えば、それは当時“ブランド・ファッション”にときめくような、“知的ファッション”でないことは、なかった。
しかし、じっさいに読む、フーコーやドゥルーズの<原文>(翻訳でだ)もそれについての<解説>も、とてもやすやすと理解できるものではなかった。
そういえば、上記の“出会い”より前にぼくは、現代思潮社から出たデリダ「グラマトロジーについて」は買っていたが、まったく読み進めることができなかった(現在においても;笑)
さて話をドゥルーズ(+ガタリ)にしぼろう。
ぼくはこの『アンチ・オイディプス』の最初の翻訳本(単行本)は買っていない。
高かったからである。
そして『ミル・プラトー』単行本の方を(これも高かったが)買った。
それにもかかわらず、『ミル・プラトー』を読んでもまったく理解できなかった。
その本を何年も放置したあげく、退職したときの大整理で、二束三文で処分してしまった。
当時(2003年)、ぼくは、もっと身についた(自分の身の丈に合わせた)読書をしよう、と思ったらしい。
しかし会社を辞めたあとの比較的時間があるなかでの“読書連鎖”のなかでも、フーコーやドゥルーズは気になり続けてきた。
だから『アンチ・オイディプス』の文庫本での刊行は、ぼくにとって<事件>だったのだ。
2006年、この文庫の刊行直後にぼくはこの本を買い、当時のDoblogにもそのことを書いたと思う。
にもかかわらず(笑)結局、現在にいたるまで、この本を読み進んでいない。
もはや、この文庫本が刊行されてから3年以上が経過した。
いまこそ、<この本>を読もう。
宇野邦一氏の後書の最初を引用しよう;
★ 刊行後30年以上たち、すでにドゥルーズもガタリも地上の人ではなくなったいま、『アンチ・オイディプス』を新たな訳で、文庫として出版することの意味はなんだろうか。もちろん、どのような読み方も拒むわけにいかないけれど、訳者にとって、それは決してあの熱い思想の時代を<回顧する>ためではない。
★ 確かにこの本は、フランスが、世界が、社会革命、文化革命をめぐって大きく揺れ、何をどう変えるかについての議論が沸騰した時代の痕跡を凝縮している。それはとりわけ、あの時代の欧米に強い影響を及ぼした<精神分析>を激しく批判する書物として知られている(それなら<精神分析>がまったく定着しなかった国で、それはまったく無意味だろうか)。また欲望それ自体がもつ革命性を擁護する書物としても知られている(それなら革命の課題など見えない世界では、それは無意味だろうか)。
★ 同時代の課題と意識の揺れに機敏に応えようとしたことは、この書物の特筆すべき長所であるにちがいない。しかし同時代の問題に応えるのに、同時代の展望をはるかに超える展望の中に問題を位置づけて応えたことが、やはりこの本の特徴であった。それゆえ、30年以上を経て、いまこの本を読み直すこと、新たに訳出することは、この本が30年をのりこえて、今の世界に何をつたえてくるかを検討する機会でもある。かつての問題意識の切実さ、親密さ、性急さから読みとれたものを離れて、少し遠い距離から、その距離を越えて届いてくるものが何か確かめることでもある。
★ 『アンチ・オイディプス』は(略)まるで世界史全体を包括しようとするような大それた野心的試みに見えるけれども、そうではない。それはやはり厳密な哲学の本であって、思考の対象を包括するよりも、まず思考の姿勢を変えることをうながし、世界を構成する様々な次元を貫通する問題提起をおこなっている。その思考は、実に様々な領域に触れるが、決して包括的にではなく、横断的に、多領域にかかわろうとするのだ。この違いは重要である。たとえば、アルトーのような<分裂病者>の問題は、ほとんど同時に、経済、政治、歴史、家族、言語、身体、芸術などにかかわるのである。
(以上引用)
《それなら<精神分析>がまったく定着しなかった国で、それはまったく無意味だろうか》
《それなら革命の課題など見えない世界では、それは無意味だろうか》
《それはやはり厳密な哲学の本であって、思考の対象を包括するよりも、まず思考の姿勢を変えることをうながし、世界を構成する様々な次元を貫通する問題提起をおこなっている》