Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Snapshot;10-01-14

2010-01-14 12:34:52 | 日記


★システム

この現代社会の<システム>で最悪のもの。

学校とメディア。

学校は、学ぶことを嫌う人間をつくりだす。
メディアは、世界を知らないですむ人間をつくりだす。


★ 環境

ひたすら破壊されるもの。

“神の手”の切り札をなくしても、プレイし続ける資本主義の<精神>。


★ 動物

人間もまた動物であるなら、動物もまた人間である、とは言えない。


★ 時間

2010年も、14日経過。

君が客観的であるなら、この時間の直進性(破滅に向かうレミング)を止められない。

たぶん、主観性によって、君は時間を混乱(錯乱)させる。


★ 未知との遭遇

未知との遭遇というテーマにおいて、奇妙なのは、その<映像>がちっとも未知ではないことである。

そうだよねスピルバーグさん。


★ サイエンスフィクションとホラー

サイエンスフィクションの魅力は、それがサイエンスではないことであった。

ホラーの魅力は、それがちっともこわくないことであった。


★ ミステリ

ミステリというジャンルほど、いいかげんなものは、ない。

にもかかわらず<ミステリ>だけを読むひとがいるのは奇怪だ。


★ 警察

警察官とか刑事とか検事とか弁護士とかを主人公にしたドラマがある。

それらを見て、わかるのは、世の中にはとっても悪い人がいるということである。

つまり死刑にして消滅させるほかない人がいることである。


★ マンガ

マンガというジャンルは、バカにできない。

つまり、マンガ的感性というのが、支配的になった。

その感性が、多様であっても、それは、マンガ的でない感性とは、決定的にちがう。

ぼくは、“スカイクロラ”のスイトさんを知ってから、この問題に気づいた。

つまりマンガの主人公に萌える感性は、人間的ではない。


★ 病院-病人-医者

最近の海外ドラマは、病院モノが流行りである。

つまりそこでは、人生のドラマとやらが描きやすいのだ。

こういうのを、安易な態度という。

ぼくは見ない(まぬけな医者の馬面を見ていられない)


★ ドラマ

テレビにしろ映画にしろ、それが見れるか否かは、主人公の顔である。

近年、見ただけでいやになる顔が多い。


★ テロリスト

テロリストも近年のドラマの、トレンドである。

にもかかわらず、テロリストとは単純な人々なのである。

ゆえに、それと戦う人々も単純になる。

それを見る人々も単純になる。


★ アメリカ・ヒューマン・ドラマ

アメリカ・ヒューマン・ドラマほどくだらないものはない。

アメリカ的ユーモアというのも、いただけない。
ぼくはウッディ・アレンの映画を見ていられない。

つまり、あの顔だけで、笑えない。


★ 映画における歴史描写

昨夜、トマス・モアについての映画を見たし、先日は“サン・バルテルミの虐殺”を背景とした映画を見た。

こういう歴史を映画で見て良いことは、そういう歴史があったということを知ることである → そういう歴史に突っこむきっかけになる。

だが、その映画で描かれたことを信じてはいけない。

つまり、映画でのトマス・モアのセリフに感動している場合ではない。
なぜ、モアは、ヘンリー8世の権力は拒否するのに、ローマ法王の権力は拒否しないのだろうか。

キリスト教というのは、権力を否定し、内面だけに依拠するのではないのか。


★ 午前中と午後もしくは夜

ブログを午前中~昼に書くことが多い。

午後から夜にかけて、自分が書いたブログが、いやになる。

これは単に血圧の問題かもしれない。


★ 中毒

たしかに、人間というのは、なにかの中毒になりやすい。

ぼくの場合は、煙草である。

しかし社会的にもっとも中毒的なものとは、テレビである。

つまりテレビを見ないひとも、潜在的中毒である。

テレビを見る人は、死に至る中毒である。

ああ、もうひとつ、セックスもしくはセックス幻想ね。

ぼくらは、なにかのストーカーなのである。


★ 努力すればできる

最近読んだ大学教授の対談で、

“いくら勉強してもできない子というのは、先生にはわかってしまう”

という発言を読んだ。

しかし、そういう子には決してそう言っては、ならない。

“君は努力すれば、できる”

と言うのである。


★ 勉強

現在学校で行われている勉強に向かない子がいるのは、当然である。

そういう子には、その子に向くことを教育すべきだ。

自分に向かないことを誤解して、情熱を傾けるひとがいるから混乱するのだ。

つまりいつまでも自分の問題に直面しない人々である。


★ 玉子とニワトリ

働かないと食えないぞ、と脅迫されるから、カネだけになるのだろうか。

それとも。


★ 現実的なひと

たぶんこの世は、現実的なひとが現実的だと思うことで、運営されている。

だから現実的なひとがいないと、現実はもたない。

現実的でない人々(ぼくのようなひと)だけだったら、現実は崩壊してしまう。

しかし問題なのは、現実的な人々が運営しても、現実が崩壊しそうなことなのである。

そうなると、どっちみち崩壊するなら、現実的でない方が良い(好きだ)という選択になる。

つまり現実的な人々というのは、たんに退屈だから。





陰謀について

2010-01-14 10:11:00 | 日記


天木直人ブログで、《今週号(1月22日号)の週刊朝日が「WTCは爆破解体された」という記事を掲載している》ことを知った(ぼくは週刊誌をいっさい見ていない)

天木氏の発言を引用する;

実は私はこの9・11事件陰謀説については、これまで意図的に距離を置いてきた。
 様々な陰謀説に目を通せば通すほど疑惑は募るし、諸外国ではたとえばイタリアのコシガ元大統領の内部仕掛け説発言や、ケリー上院議員の「爆破されたと聞いたことがある」発言がなどがなされていることも報道で知っていた。
 それにも関わらず、私は9・11事件の真相解明に自らを関与させてこなかった。
 それは、自分の能力の及ばない事に関与する余力はないという事が最大の理由であるが、もう一つは、たとえ9・11事件が内部の手によって起こされたものであったとしても、それを米国やイスラエルが公に認めるはずはない。 
 そうであれば、陰謀説を唱えれば唱えるほど、あいつはその程度の者だ、と烙印をおされ、自分のこれからの言動に関する信頼性を失うおそれがある。その事を避けたいという保身からである。
 このような私の態度が正しいかどうかはわからない。この点についてはむしろ読者の意見を是非とも聞かせていただきたいと思っている。
(以上引用)


これを読んでぼくが感じたことを書く。

つまり“ぼく”には9.11事件が、陰謀であったか否かを判断する“データ”はない。
つまりそれが<陰謀>であった可能性もあると思う。
だからそれが陰謀であったか否か、ではなく、一般に<陰謀とは何か>について考える。

端的に言ってしまえば、その<事件>が陰謀であるか否かは、ほとんど“われわれには”、わからない、ということだ。

これは<9.11>のような大事件にかぎらない。
毎日<報道>されている、<すべてのニュース>について言える。

だから上記の天木氏の<良識>は理解できるが、天木氏にはどうして、“陰謀である可能性がある事件とそうでない事件の区別”ができるのかがわからない。

つまりぼくらが、<陰謀である>とぜんぜん感じない<事件>だって、陰謀である可能性があるではないか(笑)

たとえば“最近”話題になっている<核密約>とかは、それが“密約”であることを暴くひとが現れなければ、なんの“密約”でもない。

くりかえすが、<陰謀>は、こういう政治的・国際関係的次元にのみあるのでもない。
国内企業の動向にだって、地域社会にだって、<家族-家系>にだって、陰謀はあるかもしれない(笑)

いやいやぼくは<疑心暗鬼>をすすめているわけではない。
しかし、<疑う>というのは、ネガティブなことではなく、人間的知性でもある。
デカルトが、あらゆることを疑ったから、<近代>ははじまったのである(らしい)

ぼくは、この世界は、結構、いいかげんな人々によって、いいかげんに<運営>されているという感を、近年ますます深めている。

たぶん<人類の悪>というのは、この<いいかげんさ>である。

ただしこの<いいかげん>をどう定義するかは、問題である。
ぼくがいいたいのは、なんか宗教的・形而上学的な<悪>はないということである。

つまり、そういう“高級でない悪”があるわけである。
それが、<悪>ではないか、と思うのだ。

しかし、とうぜん、<そういう悪>こそ恐ろしい。
それは、すべてのひとの悪であるからである。

もし“9.11が陰謀であったなら”、9.11以降積み上げられてきた、メディアをはじめとする“すべての言説”は、<嘘>となる。

つまり、<すべてが嘘である(嘘でしかない)可能性がある>世界にぼくたちは住んでいる。
その世界でああだこうだ言って“稼いでいる(言説を売る)”人々がいるということである。

ぜんぜん“角度”がちがうが、ぼくたちは<なぜ人を殺してはいけないのか?>という疑問にたいして“さえ”、明確な根拠を示しえない。

いったい、それで、なにが<わかっている>のか。

あなたの生きている基盤さえ、無根拠である。

ぼくは<不可知論>や、<ペシミズ>や、<シニシズム>をすすめているのでは、ない。

ぼくたちには、まだ、<考えることがある>と言いたいだけだ。