Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ホモ・サケル;“血なまぐさい欺瞞に対する回答”

2010-01-17 22:47:55 | 日記


★ 我々の政治は今日、生以外の価値を知らない(したがってこれに反する他の価値も知らない)。ここに含まれる諸矛盾が解決されないかぎりは、剥き出しの生に関する決定を最高の判断基準にしていたナチズムとファシズムは、悲痛なまでに今日的なものであり続けるだろう。

★ 民主主義と全体主義が内奥において連帯しているというテーゼ(きわめて慎重にではあれ、我々がここで推し進めなければならないテーゼ)は、もちろん両者の歴史と敵対とを特徴づける甚大な差異を清算したり均したりする歴史記述的なテーゼなのではない(略)。しかしながらこのテーゼは、それ本来の歴史的-哲学的な平面にはしっかりと維持されなければならない。というのも、このテーゼによってのみ、我々は、この千年紀の終わりの新たな諸現実と予期しない収束の数々に直面することができるだろうからだ。それによってはじめて、この新たな政治に向かう領域が切り開かれる。この新たな政治は依然、その大部分が発明されるべく残されているのだ。

★ 本書は当初、地球規模の新秩序の血なまぐさい欺瞞に対する回答として構想されたが、検討されたことのないいくつかの問題――その第一は生の聖性という問題だった――に直面しなければならなかった。しかし、探究のあいだに明らかになったのは、こうした領域にあっては、人文科学(法学から人類学にいたるまで)が定義したと信じ、もしくは自明のものとして前提してきた観念のいずれをも、保証済みのものとして受け取ることはできず、その多くが徹底的な見直しを――破局の差し迫るなかで――必用としているということだった。

<ジョルジョ・アガンベン;『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』(似文社2003、原著1995)“序”>




下記ブログへの補足・追記;見知らぬ岸辺への航海

2010-01-17 16:44:20 | 日記


ぼくが<精神分析>に関心をもっているのは、“他人にとやかく言う”ためでは、ない。

自分自身を<分析>するためである。
しかし精神分析というのは、“患者と分析医”の<1対1>関係でしか成り立たない。
だから、ここで(ここでも)ぼくが、精神分析に関する本から“学ぼう”とするのは、“擬似的”で“いいかげん”なことなのである。

しかし、ぼくにいちばん関心があることは、<病気>ということである。
あるいは、この反対概念である<健康>ということである。

この病気-健康に関しても、(常識では)、体の病気と心の病気は、分けられている。
まずこのことに、疑問を感じる。
次に、そもそも、“病気”と“健康”は、どこで分けられるのかに、疑問を感じる。

とうぜん、この<疑問>は、“客観的な観察”などから来たものではない。
まず自分自身が大病はしたことがないが、“身体的に”あまり健康ではなかった。
あるいは<難病の妻>と40年近く暮らした、彼女の“友人たち”に会った。
あるいは、現在の仕事で、<認知症>に関与している。

ここで(前にも取り上げた)十川幸司『来るべき精神分析のプログラム』(講談社選書メチエ2008)から引用したい、最後の方に出てくる<健康>という言葉に注目してほしい;

★ では、今日の精神分析が掲げている治療目標というものは何だろうか。それは各学派によって異なっているにせよ、そこから一つの共通項を引きだすなら、「成熟」という治療課題を挙げることができるだろう。

★ この「成熟」という考えも、フロイトの治療観を引き継いだものである。しかしこの課題が実際の臨床の場で試されるさいには、そこにはやはり時代の価値観の影響が浸透してしまっている。「成熟」とは、もはや私たちの時代のイデオロギーになりつつあるが、それはコミュニケーションに長けていて、他人と調和して生きていく能力をしばしば意味している。だがこの「成熟」ということの本来の意味を人間存在のありようから考え直してみることは私たちには不可欠な作業である。先の章で、私たちはマラブーの哲学を援用し、柔軟性と可塑性という対立概念導入したが、「成熟」とは現在、明らかに柔軟性へと向けた自己の形成と結びつけて考えられている。しかし「成熟」という課題をもし精神分析の治療目標とするならば、そこで必要なのは、「成熟」を柔軟性の方ではなく、可塑性へと向けた自己の形成という方向へと展開させることなのである。

★ 私たちはこの章で、治療システムが自己に包摂・変容力と現実認知能力を与えることを論じてきた。治療システムは患者に対し、すでに与えられた形に従い、自己システムを作動させるのではなく、自らが自らに形を与えて生きるように自己システムを作動させるようにと機能する。このことは、言い換えれば、分析治療は現実をいっそう曇りなく経験するように患者を変化させ、さらにその現実との関係において、患者自身が自己システムの作動を変容させていくことを可能にするということである。

★ この章では、私たちは現実という言葉をやや曖昧な形で使ってきたが、ここで現実とは何かということを明確にしておきたい。私たちはそれぞれ現実そのものを自己システムにとって受け入れやすい形に変形して経験している。私たちの自己システムが病理的であればあるほど、その変形の度合いは強くなる。そこには幻想や理想化をはじめとするさまざまな防衛機制が働き、現実はヴェールを被ったものとして現れる。病理性を帯びた自己がこのように現実を変形するのは、そのような自己は現実の生々しさと出会うことによって受ける傷に耐えられないからである。そのような自己が治療システムの中で、自己システムの作動様式を変えることができたなら、その自己を取り巻く実際の状況が何一つ変わらなくても、現実は新たなものとして出現する。私たちはしばしば現実をただ一つしかないものと考えている。しかし私たちの自己システムの作動が変われば、現実は別様に、複数的に出現するのである。

★ ある人が「成熟」したとは、このような現実の複数性を経験するということである。このような自己の変容の経験は、もはや成熟という言葉ではなく、健康という言葉を使って表した方がいいだろう。もちろんこの健康とは医学的な意味での健康概念とは何の関係もない。この健康とは社会の側から決定されるものではない。そうではなく、きわめて主観的な感覚であり、ニーチェの言う「大いなる健康」へとつながるものである。この健康は病気ではないという消極的な概念ではなく、より積極的な概念なのである。「大いなる健康」は私たちの観点から見るならば、自己が絶えず、自らの経験の回路を更新し、自己を新たに生成していくことである。これは何度も繰り返し経験されなくてはならない。精神分析治療が目標とすべきなのは、このような健康であり、この健康が不断に獲得されなくてはならないのである。



★ これまでの価値と願望の全域をくまなく体験し、この理想の「地中海」の岸辺という岸辺を残らず航海しようと渇望する魂の持ち主、また征服者や理想の発見者が、同時に芸術家や聖者や立法者や賢者や学者や篤信家や予言者や古い型の教会離脱者が、どんな気持であるのかを自己独自の経験上の冒険によって知ろうと欲する者、こうした者はそのためになにをおいてもまず一つのものを、すなわち大いなる健康を必用とする。
<ニーチェ;『悦ばしき知識』>





捏造(ねつぞう)記憶

2010-01-17 13:45:58 | 日記


あるブログで読んだ;
《なんで生きていると、秘密にしかできないような
深い傷を負ってしまうのだろうね。》


いったいぼくたちは、このような言葉にどう反応すればよいか?
ただちに共感してしまうひとも多いだろうが、そういうひとたちは<何に>共感しているのだろうか。

つまり“秘密にしかできない深い傷”というものがあるならば、それは“他人に対して秘密”なんだから、“他人と共有”できないことなのだ。

だからもしこの言葉に<共感>できるなら、それは“あなたの秘密の傷”と“私の秘密の傷”が決して理解し得ないものとして、ただバラバラに<ある>という事態(現象)なのだ。

ぼくはここで、そういう<秘密の傷>がある(ありうる)かそうでないかを“論議”したいのではない。

そうではなく、“私の過去には傷がある”という現在の認識自体が、“捏造”ではないかとみずからを疑う必要があるのではないか、と思うのだ。

つまりぼくが<精神分析>に関心をもつ、ひとつの理由はこの<捏造記憶>である。

精神分析において、患者は分析医の誘導によって、<自分の過去>を“思い出す”のだが、その<記憶>自体が<捏造>されていることが多いという。

<記憶ちがい>と<捏造>は、ちがう。
つまりここで問題になるのは、“無意識の”<捏造>である。

まさにここにおいて、<精神分析=フロイト>の核心(革新)概念である<無意識>があらわれる。

もちろん自分の<こころの問題>を解く<論理>も<治療法>もない、と考えることは、“ノーマル”である。

つまり<私のこころ>は、<ひみつ>であるからである。

しかし、ぼくたちの“言葉によって自分とこの世界を認識したい”という欲求もまた真摯(まじめ)である。

もちろん<言葉によって>と言うとき、<世界には言葉のみしかない>ということを“言いたい”わけではない。

ただ、<わたしのこころ>を、言葉で語りえないなら、いったいなんのために<言葉>を使用するのか?

すべての核心が、<私の秘密>なら、<他者>とはどうやって、“語り合う”のか?

ぼくたちは、<私のこころ>というナルシシズムから脱して、どうやって他者と<話し合う>のか?

蛇足だが、“個人の記憶の捏造”という問題は、<歴史(という記憶)の捏造>に当然関与している。


* 用語解説<捏造(ねつぞう)>

事実でない事を事実のようにこしらえて言うこと。「証拠を<捏造>する」「<捏造>記事」(電子辞書広辞苑)