★ 我々の政治は今日、生以外の価値を知らない(したがってこれに反する他の価値も知らない)。ここに含まれる諸矛盾が解決されないかぎりは、剥き出しの生に関する決定を最高の判断基準にしていたナチズムとファシズムは、悲痛なまでに今日的なものであり続けるだろう。
★ 民主主義と全体主義が内奥において連帯しているというテーゼ(きわめて慎重にではあれ、我々がここで推し進めなければならないテーゼ)は、もちろん両者の歴史と敵対とを特徴づける甚大な差異を清算したり均したりする歴史記述的なテーゼなのではない(略)。しかしながらこのテーゼは、それ本来の歴史的-哲学的な平面にはしっかりと維持されなければならない。というのも、このテーゼによってのみ、我々は、この千年紀の終わりの新たな諸現実と予期しない収束の数々に直面することができるだろうからだ。それによってはじめて、この新たな政治に向かう領域が切り開かれる。この新たな政治は依然、その大部分が発明されるべく残されているのだ。
★ 本書は当初、地球規模の新秩序の血なまぐさい欺瞞に対する回答として構想されたが、検討されたことのないいくつかの問題――その第一は生の聖性という問題だった――に直面しなければならなかった。しかし、探究のあいだに明らかになったのは、こうした領域にあっては、人文科学(法学から人類学にいたるまで)が定義したと信じ、もしくは自明のものとして前提してきた観念のいずれをも、保証済みのものとして受け取ることはできず、その多くが徹底的な見直しを――破局の差し迫るなかで――必用としているということだった。
<ジョルジョ・アガンベン;『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』(似文社2003、原著1995)“序”>