Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

日付を持った文章

2010-01-16 11:51:09 | 日記


前にもこのブログで取り上げたことのある、見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫)の中断していた続きを読んだ。

この文章は朝日新聞の“論壇時評”からセレクトされたもののひとつだ。

日付がある;<1986年1月31日>
タイトルは;<週末のような終末―軽やかな幸福と不幸>

いま、<1986年>と聞いても、現在の年齢によって、“その年”に対する<感慨>も様々だろう。

生まれていなかったひともいる、子供だったひともいる。
ぼく自身、“その年”に自分が何歳だったかも計算しないとわからない。
当然、この見田氏の文章を読んで、“思い出す”ことがあるのである。

この<週末のような終末>というタイトルは、
《「21世紀は来ますかね」とお天気の話をするように問い合う世代》からきている。

しかし21世紀は来た!奇蹟のように(笑)

この日の“論壇時評”だけでも、いろんな雑誌からのいろんな人の発言が引用されている。
現在活躍しているひと(竹田青嗣、加藤典洋など)の名があり、そういえば昔聞いたなーという名もある。

それらの人々によって取り上げられているのは、大江健三郎や村上春樹である。
この見田氏の文章の“主題”も、村上春樹にあった。
前年に、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が出ている。

この見田氏の文章を読んでいて、まさに当時ぼくが村上春樹をどう読んだのかが、わからない。

見田氏は(いつものように)村上春樹に対しても“柔軟なスタンス”を取っている。
しかし、ここにあるのは、やはり<批判>である。

しかし当時春樹を“愛読していた”ぼくは、春樹をここで見田氏やその他の“批評家”が読んでいたようには、読んでいなかったようなのだ。
これは、“ぼくの方が”誤読であったともいえる。

ぼくは<週末のような終末>というような<意識>を持っていなかった。
なによりも<別れの洗練を身につけた世代>(見田氏の言葉)ではなかった。

こういう<意識>は、ぼくの(ぼくの“世代”とは言わない)、あとから来たのだ。

ぼくは当時(実は)、“自分は先端にいる”と思っていた(笑)
しかし、まったく“うしろ”をノコノコ歩いていたのだ。

しかしもし<村上春樹>が、<先端>でしかなかったなら、彼に意味などなかった。

まさに2010年において、『1Q84』の続編を出そうとする<春樹>は、まったくぼくとは相容れない作家なのだ。
しかし“むかしの春樹はちがった”という<偏見>をぼくは払拭しない。

見田宗介は1986年において問う;

★ 村上春樹が<普通の人>として自分の生活スタイルを規定する時、それは竹田青嗣のいう<無名の民衆>とおなじだろうか?

★それ(普通の人)は、<無名の民衆>の、不幸な垂直性を問わない。
 のりこえるのではなく、問わないのである。
 それは希薄な空気のように、世界の終わりと他者の距離という二つの断念を呼吸して生きる世代の、幸福と不幸を救済する装置である。
(以上引用)

この見田氏の文章はやはり、当時の村上春樹および“新世代”に対する<批判>なのだ。
しかし、<無名の民衆>を言った、現在の竹田青嗣は、“正しい”か?

なによりも、現在、見田宗介は何を“おもう”のか?

ぼくの見田氏に関する“評価”は両義的である。
たぶんこれほどすぐれた“論壇時評”を新聞に書きえたひとはいない。
しかし<現在>、見田氏の言ったことにぼくは幾多の疑問を感じる。

けれども見田宗介(真木悠介)が、竹田青嗣(竹田青嗣のような“リベラル”)より、面白いことは、確実である。





Snapshot;10-01-16

2010-01-16 09:25:03 | 日記

★ 寒い

寒い(笑)


★ 論争

君はぼくをこう批判したが、君の批判はここがおかしい。
と、
いろいろ自説を強化する論拠をのべる。
そのためにいろんな偉い学者の言説を引用する。

そういうことに、なにか意味があるのだろうか?


★ 真理と正義と倫理

“私は正しい”ということに、情熱を傾けるひとは、まだ元気なのである。

しかし“元気なひと”には、元気でないひとのことが、わからない。


★ 文章

とても悪いくせだが、ぼくの場合、そのひとの文章への好みは、論理展開には、ない。

もちろん論理展開が、めちゃくちゃ“だから”好きということではないが。

つまり、自分の論理展開に“こだわる”感性そのものが、きらいなのだ。<注>


★ 結局

ひとは、論理的に納得したいのだろうか。

けっきょく、この論理展開というのも、そのひとの好みなのだ。

つまり、ほとんどだれも<事実>とか、まして<真理>など求めていない。

ぼく自身も例外ではない。

ならば、なにを求めているのだろうか。

わからない。

ある幸福な状態なのだ。

それは、たぶんあらゆる<幸福の定義>とは、ちがったもの。

比喩的に言えば、陽だまりで、ぼーっとしているようなこと。

つまり“陽だまりでぼーっとしていても訪れない”ことなのだ。


★ パターン

生活も思考もパターンにおちってしまう。
趣味も、好みも、食欲も、消費衝動もパターンにおちる。

“わたしって悪い子なんだけど、ほんとは良い子なんだ”とか、
“わたしって良い子なんだが、ほんとは悪い子なんだ”とか、
言ってしまう(笑)

このパターンを、“安心”とか“安全”とか“経験”とか“成果”とか“大人”とか“諦観”とか“悟り”とか“信仰”とか“苦悩”とか言ってしまうひととは、たんに気があわない。


★ ヒューマニズム

ヒューマニズムとか、人間中心主義とか言っても、それを言う人の<人間>がちがうのだ。

つまり、そのひとが、これまでの人生でどういう人間に会い、その<ニンゲン>をどう認識したかで、ちがう。

なんども言っているように、<ニンゲンに会う>というのは、現実に会うということのみではない。

映画でも音楽でもアートでも会ったのだ。

その出会いは、限られているし、偶然でもあるのだから、自分の人間観が普遍的であるなどとは、けっして言えない。

けれども<普遍性>を志向する(思考する)科学や哲学というものがあるのだから、そういうものを<参考にする>のはわるくない。

けれども、そういう普遍性ではない特殊性(主観性)に徹底するひとというのもいるのだ。

それも面白い。

あるいは自分は普遍性をめざしていると思っても特殊性に突っこんだり、その逆であることもないともいえない。


★ ホテル

前にホテルが好きだ、と書いた。

<ホテル・フル・セックス>(爆)

ぼくは最近、“ホテル街”を歩いている(仕事場の近くだから)

しかし<そのホテル>に入ったことはない。

たぶん、死ぬまで入らない。


★ 課題

“ホモセクシュアル”について“研究”したい。

つまり<ホモ>の男には興味深いひとが多い(たとえばウィトゲンシュタイン、たとえばパゾリーニ)

もちろん“フーコーやジュネやバルトやプルースト”でも良い。

先日フランスから帰省した女性にそう言ったら(彼女は若いときジュネが好きでフランスに行ったらしい)、

《あなたは、どーなの?》と聞かれた。
彼女は“妻の友人”なのだ(爆)

ぼくはこういう“ストレート・クエスチョン”が好きだな。

その瞬間、空気が変わるような気がした(つまり幸福な瞬間)

ぼくはどう答えたか?

ひ・み・つ。





<注>;ここで使った<論理展開>という言葉について

これは、政治的・社会的・哲学的・論理学的・科学的・社会科学的な<論理展開>のみを意味しない。

“コンビニのお弁当のどれがうまいか”というようなブログにも適応している。




不破利晴への手紙・追記10-01-16

2010-01-16 07:49:27 | 日記


昨日の不破君への手紙でぼくは書いた;

しかし、家にいるときには、ぼくはテロを望まない。
良識が稼動するのではなく、たんにそういうことは、望まない。

そして、むしろ“暴力”とか“殺意”について考えたい。
ある意味では、ぼくは社会的な直接的な変化を断念したといえるかもしれない。

このぼくの心境の君との差は、<年齢>によるもので、君にすすめているのではない。
まだ生きる時間が長い方が、困難だともいえる。

ただ、正直に言って、死ぬのはこわいし、自分が死んだあとを託す<若者>がいないことは、やはり、悔しい。
(以上昨日手紙引用)


これを書いたあと、近日読んだ“哲学系教授”ふたりの対談を思い出したので引用する;

小泉――死にそうな老人は?
永井――同じことですよ。子供の場合だって、そんなことはうまくいかない場合もあるだろうし。死にそうな老人じゃなくても、年をとればとるほど、はっきり言ってもう死ぬわけでしょう。死ぬ間際の人は殺してもいいということに……。
小泉――そうそう。ぼくは、どうして老人がおとなしいか、不思議なんです。
永井――そうでしょう。死ぬ間際の人は何をしてもいいことになりますよ。だって、死刑を恐れる必要はないわけだし。
小泉――道連れ論ね。
永井――そうそう。そういうことになるわけですよ。
小泉――老人は体が弱い。それこそ幸いなことに、体力がなくなっちゃう。
永井――そうでしょうね。そうじゃなければ、こわいね。
小泉――こわい。
永井――だって、自暴自棄になることがあるじゃないですか。それだけの体力、気力がなくなるということが功を奏しているんでしょうね。
<永井均+小泉義之;『なぜ人を殺してはいけないのか?』>

この部分に限らず、この大学先生ふたりにも、ぼくは“ひとごと”を感じるが、ここではそれを批判するのではなく、《死ぬ間際の人は何をしてもいいことになりますよ。だって、死刑を恐れる必要はないわけだし》ということの<事実性>に注目する。

つまり“体力・気力のある老人”が出現する“可能性”である(ぼく自身はそうではないと言っている)
またこれは、<死刑制度>の無効性の論拠にもなる。

ぼくは老人が“自暴自棄で”人を殺し始めることを推奨しないし、自分もそれはしない(できない)
しかし、ここでぼくが思い浮かべたのは、大江健三郎とサイードによる<晩年のスタイル>ということである。

ぼくはサイードの『晩年のスタイル』を読みかけたばかりで、まだ充分に把握していない。
しかし大江氏の最近の小説(これも読みえていないが)は、決して“悟って死んでゆく”老人(書き手)などを描いていないことは想像できる。

むしろ老境に達するにつれ、“過激化する”老人が描かれているのではないか。
大江健三郎というひとは、過激なひとだったし、老年になっても、その初心をわすれない。
もしそういうことばがお好きなら、<テロリスト>的資質のひとだと思う。

しかしサイードも大江も、過激であると同時に<良識的>なひとでもあると思う。

すなわちこの場合の<良識>こそが、現在の倫理にかかわる。

常識でない良識にである。



*写真はベルイマン『野いちご』

老人を描いた映画で屈指の傑作。