Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

アバター

2010-01-18 21:44:55 | 日記


“ぱきぱき”ちゃんのブログなどで「アバター」という映画を知った。
それでちょっといろいろネットで調べたら“大評判”なんですねー(笑)

ジェイムズ・キャメロン監督の映画は、かつてほとんど見ているし、結構好きだったが、「タイタニック」でずっこけた。
リドリー・スコットにもある時期(どの映画だったかわすれたが)ずっこけた。
ヴェンダースには「ある家族の風景」(だっけ?)でずっこけた。

こういう監督たちと、スピルバーグやイーストウッドは、ぼくにとって<ちがう>のである。
つまり“スピルバーグやイーストウッドには”ずっこけようがない、はじめからダメである。(笑)

さて、ぼくが住んでいる近くでは、吉祥寺で「アバター」をやっているので、行ってみるか。
もし行くなら、映画館に入るのは2008年の秋以来である。
立川で「スカイクロラ」と「ダークナイト」を続けてみた(その直後妻と「スカイクロラ」をまた見たんだ)、昨年は一度も映画館に行かなかった。

「アバター」の説明を(サイトで)見たあと、大澤真幸『<自由>の条件』(講談社2008)が出版されたとき書かれた“補遺 自由意志と因果関係”というのを読んだ。

まったくの<偶然>なんだが、この文章は“サイボーグ化した身体と哲学的問い”という見出しからはじまっている。

「アバター」と大澤真幸!

このような<偶然>に遭遇すると、この文章を“ブログに引用せよ!”という神のお告げが聞え(もちろん幻聴である)、これをブログに書く義務を感じた(笑)

ちょっと引用個所をうまくセレクトするのが億劫なので、テキトーに引用するので、これを読んで気になるひとは、ちょっと高いが、『<自由>の条件』を買って読んでください;

★ 次のような実験の成功は、自由意志を擁護しようとする論者にとっては、とりわけ不利なもののように思える。ラットの脳にコンピューター・チップを埋め込み、そこへ信号を送り、ラットの移動を自由に操縦することができるのである。信号は、脳の――主として運動にかかわる――さまざまな部位を適当に刺激するような指令になっている。これによって、ラットの行き先を、外から決定することができるのだ。たとえば右に曲がらせるためには、脳への刺激によって、ラットの右のひげに何かが触れているような感覚をもたせる。そしてラットが右に旋回したとたんに、今度は、快楽中枢に刺激を与えるのである。この方法を用いれば、普通のラットが決して行わないような動作をも――たとえば梯子を上るような動作をも――、当該のラットに選択させることができる。ラットが「下等な動物」だから、こういう実験がうまくいった、というわけではあるまい。原理的には人間に対しても同じことができるはずだ。
★ この実験が示唆していることは、当事者としては純粋に自由意志の発動の結果として行為しているつもりでも、それは、客観的には、自由意志とは無縁な因果関係によって決定されているかもしれない、ということである。

★ 因果的な決定論と自由意志の存在とは、両立できない。と、すれば、どちらが正しいのか?両者はどのような関係にあるのか?これは哲学的な古典的な問いのひとつである。この問い自体は、ロボット工学や脳科学の発展とは無関係に、かつてからよく知られてはいた。だが、これらのテクノロジーや科学的知見が、問いを抜き差しならぬものに変えたことは確かである。心的現象が因果関係のネットワークによって埋め尽くされていること、そこには自由意志のための余地がどこにもないように見えるということ、こうしたことを、ロボット工学や脳科学の成功が深く印象づけることになるからである。
<以上引用>


まさに、《これらのテクノロジーや科学的知見が、問いを抜き差しならぬものに変えた》のである。

<すでに>ぼくらは、《自由意志のための余地がどこにもない》世界に住んでいるのではないか。

この<メディア>、とくに<テレビ>によって(笑)

ぼくたちは、(すでに)、テレビによって(“ネット”でもいいよ)<遠隔操作>される<ラット>と成り果てたのではないか。

すなわち、ぼくが「アバター」を見に行くのも、この<遠隔操作>の効果なのだ。





Snapshot;鈍感

2010-01-18 11:21:50 | 日記


◆今から20年前、東西冷戦が終わった。だが、平和が到来するとの期待は裏切られ、人類は幾多の紛争や虐殺を目にしなければならなかった。ユーゴスラビアの解体と内戦、ルワンダの大虐殺、そして、イラク戦争後の宗派間抗争……◆その20年の間に育った日本の若者が先日、大人の仲間入りをした。「目立ちたい」などというわけの分からぬ理由で、成人式で暴れる新成人の映像が、今年も茶の間に流れた◆街の本屋には今、定年後の生き方を指南する本があふれている。世界には、貧困やエイズが原因で、平均寿命が40歳代の国がまだまだある。平和で不思議な国だな、ニッポンは。そう思わずにはいられない。
<今日読売新聞・編集手帳>


この書き手には、
《平和で不思議な国だな、ニッポンは》
という<感想>しかないのである。

ぼくは“ニッポン”は、現在、<平和>でも<不思議>でもないと思う。

“いままでも”そうではなかったと思う。

すなわち、ぼくがこういう文章に感じるのは、<鈍感>ということだ。

つまり“ニッポン”には、鈍感な保守主義者と、鈍感なリベラルしかいないということだ。