Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Snapshot;下半身について

2010-01-28 19:37:47 | 日記

★問題提起

仕事から帰りパソコンを開けたら、突如、電光のように“下半身について”という<テーマ>が浮かんだ。

このテーマをどう展開するかは、<未知>である、数分待たれよ。

君たちは信じないかもしれないが、このぼくのブログというのはいつも、“あらかじめ書くことが決まって”書かれてはいない。

<引用>の場合は、たしかに引用個所は(ほぼ)決まっているが、それにコメントをつけるか否か、そのコメントがどう展開するかは、書いているうちにきまる。
当然、漢字や送り仮名のチェックはするが、書き直しは、ほとんどしない。


★ “下ネタ”

ぼくは“下ネタ”ということばも、その言葉で表現される内容もきらいである。

とても親の躾がきびしく、<上品>に育ったからだ(嘘)

だが(下ネタはきらいだが)、“下半身の問題”というのは好きである。
さて一般に、“下半身の問題”には二種類あるといわれている。
セックスと排泄である(どっちも同じであるという“見解”もありえる)

どちらも、ヒジョーに重要なのに、軽んじられているor話題にされることが(つまり“公共的”討議が)貧困ではないだろうか。

たとえば、寝たきりの人々の<オムツ問題>。

人間の“最後の尊厳”の具体的根拠のひとつは、自分で排泄することである。


★ まずい展開

根が真面目なので、どうもこの<下半身問題>が、ハナから、<ヘヴィー>(いま“屁ヴィー”と変換!)になってしもうた。


★ 精神分析学

精神分析学に関する本を読んでいると、やたらに<肛門期>という言葉に出会う。

みなさん、この言葉に、なんらかの“ムズムズ”をかんじませんか?!

べつに“肛門のあたり”がムズムズしなくてもいいのよ。

<人間>というものを、“シンプルに”考えれば、たしかに(人間も)、口~肛門につながる<管(くだ)>なんよ。

まあこういう“発想”に、顔をしかめるひとがいるなら、“この管に<脳>が連結している”と<定義>しよう!


★ 未知なる展開

あっという間に上記を書き終わり、いよいよ<本論>突入か?と思われる。

<肛門>の次はなんでしょう?(爆)

しかし今日は(今日も)疲れてるのよね。

今日は変な時間に(5時過ぎに)渋谷で旭川味噌ラーメン食べたよ、その後コーヒー(マンデリン)も飲んだ。

もう夕飯抜きで寝ちまうか。

この深淵かつ遠大な<テーマ>については、いずれまた。

明日から4連休(予定)なので、本を読み、<引用>ブログを書くほうが、(ご期待に添えないかもしれないが)<生産的>かも。

しかし<生産=排泄>という論理展開もありえるなぁー。




もったいない

2010-01-28 10:09:01 | 日記

仕事に行く日が続くと、便秘がちになる、いや、本が読めない。
通勤電車や喫茶店で数ページ読むだけである。

《誰かがヨーゼフ・Kを中傷したにちがいなかった。悪いこともしていないのに、ある朝、逮捕されたのだ。》(カフカ『訴訟』(光文社古典新訳文庫2009)

というような、苦手なカフカさえ、面白そうに見える(笑)

電車に乗ったり、街を歩いて、なにが<面白い>だろうか!
毎日、同じ人の顔を見て、どうして心ときめくであろうか!

街を行き、楽しげな“若者たち”を見るにつけ、溜息がでる。
ああ“若いって、すんばらしい”、彼らは自分が60歳になったときを<想像>できない。

<ああ、もったいない>(爆)

もちろん<反省>すれば、ぼくも彼らと同じ年代の頃は、“同じように愚か”だったのである。
まったく、徹底的に愚かだったなぁー。

しかし、<現在>、そう反省できるからといって、ぼくが、この<愚かさ>から脱したなどということは、まったくない。
<別種の愚かさ>に突入したのだ!(笑)

つまり<本を読む>という行為も、<愚かさ>と無縁ではない。
まったく。

しかし(笑)、もし本がこの世になかったら、ぼくは退屈で死ぬであろう。
このことだけは、たしかである。

つまり、<その本>が、エンターテイメント(ジャンル)であるか否かなど、なんの問題でもない。
<それ>が哲学であるか、社会科学であるか、文学であるかなぞ、なんの問題でもない。

<カント>だって、エンターテイメントである。
<フロイト>なら、スリル満点。
<ベンヤミン>は、満天の星。

ぼくは近年、<小説>というものをあまり読んでない。
中上健次と青山真治は例外であった。
ぼくの机の回りには、数々の<小説>が、ぼくを待っている。

<カフカ>が、もぞもぞ存在をアッピールする。
『パルムの僧院』、『闇の奥』、『若い芸術家の肖像』、『アブサロム、アブサロム!』、『水死』、『黄金探索者』、『存在の耐えられない軽さ』……

ああ、<存在の耐えられない軽さ>!
<失われた時を求めて>!!!

あなたの<欲望>、あなたが<何を楽しむか>は、重要である。

飢えた子の前では、<文学>は不可能(無効)である。

“アウシュヴィッツのあとでは、<詩>は、<野蛮>である。

もし、ぼくらが、飢えた子でも、アウシュヴィッツの住人(捕獲されたもの)でもないのなら、読むことは、やはりこの人生で他になかなか見出せない<楽しみ>である。


今日もこれから、仕事に行く(笑)



基地についての機知ある考察;停止しない思考

2010-01-28 08:44:24 | 日記

さて内田樹最新ブログ“基地についての思考停止”を取り上げる。

しかしここでぼくが、ぼーっと“考えたい”のは、<基地問題>というより<思考停止>の方である。

すなわち、内田樹のような文章を、面白がって読む人々(そーゆう人々が多いようだが)は、<思考停止>ではないのか?と問う。
あるいは、内田樹というひと、も、<思考停止>ではないのか?と問う;

引用開始;

アメリカが沖縄の基地を返還するということがありえないのは、保守派の政論家たちが言うように、それが対中国、対北朝鮮の軍事的拠点として有用だからではない。
軍事基地が有用であるように見えるように、アメリカは対中国、対北朝鮮の外交的緊張関係を維持しているというのがことの順序なのである。
軍事基地を他国領内に置く合法的な理由は、「そこに軍事的緊張関係があり、それをコントロールすることがアメリカの責任である」という言い分以外にないからである。
だから、沖縄の基地問題は、単なる軍事技術や外交の問題ではなく、アメリカが「思考停止に陥るマター」という国民的トラウマの問題だと申し上げているのである。
基地問題を論じるさまざまの文章を徴するときに、「アメリカがそもそも他国領内に軍事基地を持つことにいかなる合法性があるのか?」という根本的な議論はきまってニグレクトされている。
それはアメリカ人がその論件については自動的に思考停止に陥るからであり、アメリカ論を「アメリカ人がアメリカを論じるフレームワーク」で語るすべての「専門家」もひとしくその「思考停止という病」に罹患しているからである。
(以上引用)


けっこう“正しい”ことを言ってるじゃん(笑)

しかし、こんなことは<あたりまえ>である。

これを<あたりまえでない>と思う人々は、“保守派の政論家たち=すべてのメディア”の言うことをただ鵜呑みにしてきた<阿呆ども>である。

しかしこういうことに<気づく>のは、内田樹先生だけではないのである。
柄谷行人は1990年のアメリカ・プリンストン大学での講演で、
★ しかし、私が今日話したいと思うのはそれ(注;「帝国」、「近代国家」、「帝国主義」)を政治・経済的に解明することではありません。たとえば、ナショナリズムの問題は、たんに政治・経済的な視点ではけっして理解できません。それは、むしろ文学的あるいは美学的な問題です。(“帝国とネーション”-『<戦前>の思考』)
と言い切っている。

ぼくはこの文章を、たまたま昨日読んだだけである(笑)

この発言は“20年前”ですよ。
やっぱり頭の良い人というのは、いるもんだ。
この<発言>にくらべれば、内田樹は“トロい”。

つまり柄谷行人は、“すべては、<文学>(美学)の問題だ”と言わんとしている。

こういうのが<ラジカル>なんです。

内田樹の“論議”においては、まだ、
《基地問題を論じるさまざまの文章を徴するときに、「アメリカがそもそも他国領内に軍事基地を持つことにいかなる合法性があるのか?」という根本的な議論はきまってニグレクトされている》(引用)というような、<法的根拠>が問われている。

こういう論議に<説得性がある>と思う人が多いだろうね。
しかしほんとうに、“そんなこと”が<問題>ですか?

もし<合法性>で、すべてが裁かれる(誰によって?)なら、この世に<矛盾=不正>なんてあり得ない。

“これが合法的か否か”と問うような<リアリスト>の感性こそ、現在の<思考停止>をもたらしているんじゃないの?

まさに、ぼくたちは、この<合法性>という<法の思考>をこそ問うべきだ。

どこかに依拠すべき<法=正義>が、“すでにあり”、それから逸脱しているか否かを“問う”ダケでいいんですか?

ぼくたちが<思考する>というのは、<そういうこと>なんですか?


おそらく<文学に依拠する>と言ったら、<誤解>する人々が多いと思う。

しかしそういう人々は、<文学>を知らない、あるいは、<文学>を甘く見ている。

だからこそ、まさに<文学>についての<思考>と、<文学>の革新が要請される。

すなわち、<思考を停止しない文学>が。

<文学>は、たんなる気晴らし(エンターテイメント)じゃない。


<文学>だけじゃ、ダメかしら?