Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

キリストはなぜ殺されたのか?

2010-01-11 17:48:29 | 日記


辞書のように硬くて厚い大澤真幸『ナショナリズムも由来』の読書は、188Pで中断していた。

ちょっと“あるひと”の読書を中断していると、“大澤真幸というひとは結局、なにを言っていたひとなんだろう?”という疑問がわいてくる(べつに大澤にかぎらないが;笑)

そこで、“ちょんぼ”であるが、バッと飛ばして、この本の最後=“結びに代えて――救世主について”を読んだ(この部分だけなら22ページである)

やっぱりおもしろいではないか(笑)
このひとのジェット・コースター的拡散(散開)と展開についていくのは、結構大変なんだが、この人には、ちゃんと“モチーフ”があるのである(それを“思想”と呼ぶ)
やっぱ、この本を“ちゃんと”読む必要がある、『<自由>の条件』も。

今日は柄谷行人の本もパラパラ見て、同様の感想をもった。
ああ、ベンヤミンもサイードもアガンベンも、フーコーもいるのである、どうしましょう?
内田隆三『国土論』や前田愛や多木浩二や立岩真也に、<精神分析>もあるのである!どうしよう。

さて、タイトルに掲げた“キリストはなぜ殺されたのか?”というのは、この大澤氏の本の“結びに代えて”の章の小見出しである。

この<疑問>は、かねてからのぼくの疑問であった、引用しよう;

★ だが、これらのどちらでもない、両者を横断するような愛の形態があるのではないか。すなわち、対象となる他者の特異な性質、彼(女)を他からわかつユニークな特徴を経由してはいるのだが、それに、肯定的・順接的に関わるのではなく、否定的・逆接的に関わるような愛の形態である。他者の特異的な美点のゆえに愛するのではなくて、特異的な欠点にもかかわらず愛するのだ。重要なのは、この「にもかかわらず」という逆接の連関である。

★ 愛されているのは、他者の内にあって、何ものとしても積極的には特徴づけられない「それ以上の何か」なのだ。特異的な性質は、その「それ以上の何か」の代理物にすぎない。それは、「それ以上の何か」との対照において「不足しているもの」として、つまり否定性を帯びて現前することになるわけだ。だから、このとき、真に愛されているのは、どのような性質としても積極的には記述しえない空虚、無としての他者である。したがって――積極的には何者でもありえない「無としての他者」は任意の他者でもありうるのだから――、この愛は、普遍的な愛への潜在的な可能性を宿している。つまり、他者の特異的な欠点に逆接的に志向する愛には、普遍的な愛への可能性がすでに孕まれているのだ。

★ 繰り返せば、他者の他者性への、決して現前しえない「無としての他者」への通路として機能する、(他者の)性質は、その他者の特異的な「欠点」として表れる。つまりは、欠点への過剰な愛の内にこそ、普遍的な愛への可能性が宿っているのだ。「欠点」とは、しばしば、身体の歪んだ部分対象や瞬間的に垣間見える仕草や表情である。そうした「欠点」として現象する対象の最も一般的な例は、たとえば「性器」ではないだろうか。性器は、ある意味で、醜怪である。性器への欲望、セックスへの欲望は、むしろ、一般には、純粋な愛とは合致しない。言い換えれば、両者の奇跡的で、ほとんど不可能な合致の中で、普遍的な愛への潜在的な可能性が姿を顕しているのだ。

★ それゆえ、一般化して捉えれば、こう結論できる。真の愛、普遍的な愛の可能性は、第三者の審級(神)を内在的な他者(人間)へと還元することを媒介にして拓かれるのだ、と。第三者の審級を内在化させうるということは、第三者の審級が――超越者としては――存在しないということである。だが、しかし、人は、内在的な他者を直接に、普遍的に――完全に平等に――愛することはできない(「死者」への愛は、もはや愛ではない)。第三者の審級の内在的な限界を媒介にしなくては、つまりキリストをヨブの位置に引きずり下ろす操作を媒介にしなくては、愛の普遍性に到達することはできないのだ。結局は「存在しない」としても、殺されるべき「捨石」として、第三者の審級が必要だ。

★ 「愛」の体験を経由することで、第三者の審級は、その性質を本質的に変容させてしまう(つまり、神=キリストが人間化=ヨブ化してしまう)。この変容は、同時に、われわれ自身の性格の、われわれ自身の愛のあり方の変容でもある。すなわち、このとき、愛は、ナショナリズムを結節するような閉鎖性を脱し、普遍的な社会空間を準備するような無限に開放的な形式へと転換するはずだ。メシアとは――法の門の前にやってきた男<注>とは――、こうした変容を導く、否定的な媒介としての第三者の審級でなくて、何であろう。

(注;カフカ「法の門」参照)

<大澤真幸;『ナショナリズムの由来』(講談社2007)>





日本と西洋あるいは<世界>

2010-01-11 13:30:06 | 日記
たとえば、“海外の小説や思想”を愛読してきた(している)にせよ、時々、むなしくならないということはない。

しかし肝心なことは、それなら<日本>原産のもの“だけ”を読んでいれば、むなしくならないのか、ということである。

あるいは、“日本原産のものだけ”とは、なにを意味するのか?
端的に、そんなものはない、のである。

けれども(要するに)、その<書き手>が日本人である場合と、日本人でない場合の<差異>はあるだろうか、これは<ある>と思える。

たとえば、<ヘーゲル>を(誰でもいいのだが)、原文(ドイツ語)で読むのと、翻訳で読むのと、“解説書”で読むのと、へーゲルの思想を“使って”日本人が書いたものを読むのは<差異>がある(だろう;“だろう”というのは、ぼくはドイツ語が読めないから)

ならば、“ドイツ語が読めない”日本人は、ヘーゲルを“理解できない”のだろうか。
あるいは、“ドイツ語が読める”日本人も、“ドイツ人”よりヘーゲルが理解できないのであろうか。
しかし、ヘーゲルが理解できない“ドイツ人”もたくさんいるようである(笑)

逆に“日本人”が書いたものなら、“日本人”であるひと全員が理解できるのであろうか(爆)

しかし、たしかに、“日本人であることの悩み”は、ある。

このことを<悩む>ことこそ肝心である(いま思いついた!;笑)

自分が“わかる”日本語のなかで、<たわむれて=はしゃいで>いては、ダメである。


いくつか引用しよう;

★ 哲学の勉強をしていると、おかしな話だが、不断に<哲学とは何か>という問いにせまられる。ことに、もともとphilosophiaに当たる言葉をもたず、したがってそれによって名指される知の様式をもったこともないにちがいないわれわれ日本人が、西洋にしか生まれなかったphilosophiaの勉強をするという、考えようによっては滑稽な立場に身を置いていると、この問いはいっそう切実なものになる。その時どき、なんとか自分を納得させて勉強を続けることになるが、しかしその納得の仕方は必ずしも一貫したものではなく、恥ずかしい話だが、そのつど変わってゆく。
<木田元;『哲学と反哲学』(岩波現代文庫2004)


★ ミケランジェロをいくら研究しても、私は「西洋美術を理解する東洋の女」であるにすぎない。それまでは無我夢中だった。その結果、私はミケランジェロの本質がわかってきていた。まるで永年の知己のように彼のことがわかってきた。だが、そのことがとてもむなしかった。私と彼をつなぐものがなにもないからだった。なぜなら、彼は白人男性で、16世紀のイタリア人であり、私は現代の日本人だからだ。
<若桑みどり;『クアトロ・ラガッツィ』(集英社文庫2008)>


上記<引用>のぼくの<意図>は明瞭である。

しかしたとえば、上記引用に下記のような引用を<激突>させるべきである;

★ 戦後社会の可能性という問題を考えるとき、保守(自由主義)と革新(社会主義)という選択肢を考える人がいるかもしれない。いずれも国家の体制という大きな共同性にかんする選択肢であり、両者のあいだに過酷な闘争が存在したことも事実である。だが、こうした選択の平面は二次的なものではないだろうか。むしろ戦後社会の機軸ということで問題になるのは、政治体制のような大きな共同性にかんする理想が後退し、それに代わって、家庭の幸福や私生活のような個人をベースとする小さな共同性への志向が前面に出てくることである。もちろん、国民国家にかんする共同幻想と、家庭という小さな情愛の場とは構造的に連接しており、機能的には相関項であるといえよう。だが、この構造連関に支えられながら、「家庭」という凡庸な形象が異様に肯定的な場として浮上してくるのである。

★民主主義の時代は「生き延びる」ことが最大の前提になる。(略)民主主義は「形式的な手続き」に見えて、その内部に、あまりに自明なためその実質を問題にされずにいる「生の哲学」を内蔵していた。それは価値増殖によって自身の正当化を求める資本の論理に深く相関するとともに、フーコーのいう「生きさせる権力(生-権力)」の一形態でもある。三島由紀夫は戦後社会に浸透する西欧的な「生の哲学」を強く警戒していた。
西欧の工業文明は死をタブー視したが、それは「生-権力」と資本主義の論理に相関する現象である。日本の戦後社会においても、民主主義と高度成長が「日常」として定着するなかで、死のタブーとそのポルノグラフィ化――それと平行する「性」のタブー解禁――が徐々に浸透していく。三島によれば、人びとは切実なはずの「死」の問題を忘れようとしている。

<内田隆三;『国土論』(筑摩書房2002)>





Snapshot;つまらない大人

2010-01-11 11:03:24 | 日記


今日成人になるひとは、1989年生まれだそうだ。

1989年というのは、バブル経済まっ盛りであり、昭和天皇が崩御し、元号が昭和から平成に変わり、「政治とカネ」が問題となったリクルート事件が起き、参院選では与野党の勢力が逆転し、国外では、中国で多数の学生や市民が犠牲になった天安門事件が発生し、東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が崩壊した。
1989年というのは、ぼく個人にとっても、転換の年だった、失業期間を経て、新しい職場に就職し、地方都市へ単身赴任したのだ、忘れることができない年だ。

つまり、当時ぼくは<大人>だったし、それ以後も大人を続けている(らしい)。


さて、“大人の言説”というのがいかにつまらなく、紋切り型であり、ひとのこころを打たないものであるかの<見本>をふたつ掲げる。
もちろん、今日だけでも、このような<言説>は、無数に聞ける;


読売新聞社説;
多くの人に会う。旅行に出かけて見聞を広げる。新聞や本を読んで、世の中の動きや様々な考え方があることを知る。人生経験を重ね、知力を磨き、自身を鍛える中で適性も明確になっていく。
 今年は夏に参院選がある。選挙権の行使は、大人社会に仲間入りする一歩である。日本の将来を選択する貴重な1票を大切に使ってもらいたい。
 自分たちがこれからの社会を支えていくという自覚が必要だ。

朝日新聞社説;
古今の英知を体系的に蓄え、未来に伝える。豊かな精神を育み、知性を鍛える。豊富で確かな情報を集めて提供し、住民の生活や仕事に役立てる。図書館は多様な機能を持った知恵袋だ。行政の担当者、図書館で働く人たち、住民らが協力して素晴らしい図書館を育てれば、それは地域社会の優れた核になるはずだ。
(以上引用)


ああ、大人とは、このように退屈な存在なのであろうか!

このように新成人に呼びかける大人の言葉こそ<貧困>と言わずして、なんと言えばよいのか。

新成人というのは、“貴重な1票”を行使する(できる)“だけ”の存在、<無数>のなかのただの<1票>でしかないことを<自覚>するのだろうか。

あるいは<図書館>で、“古今の英知を体系的に蓄え、未来に伝える”のだろうか!

読売や朝日のサラリーマンのように、<ニッポン国>の<知恵袋>になって、安泰な生涯を送ればよいのだろうか!
まさにこのようなかたがたが、《自分たちがこれからの社会を支えていくという自覚》をお持ちらしいのである(爆、ば~か)


まったく、“大人の仲間入り”などしたくないものである。



*写真;むかし、”大人は判ってくれない”という映画があったのね。