Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

「アバター」見ました

2010-01-24 20:59:51 | 日記


‘ぱきぱき’ちゃんに約束したので、「アバター」感想文にいどみます(笑)

まずぼくが見た吉祥寺の映画館は、<3D>じゃなかったのよ(爆)
けれども、ぼくは<特撮>とか<テクノロジー>とかにはあまり関心がないので、ま、いいか。
<3D>じゃなくても、充分迫力あって、疲れたよ!

こういう皮肉な口調で書いているからといって、ぼくはこの映画に失望したわけでは、ございません。
見ている間は、けっこう“のめった”よ。

まあ、すんごく単純な映画なんで、この映画について、とやかく言うこと自体が野暮ですね。

しかしそれでは“ブログにならん”から、野暮な理屈をちょっと言う。
つまりぼくがこの映画に<予想>していなかった要素とは何か?

単純だが、意外と<徹底的>なんよ。
つまり、この映画は、<インディアン>に味方するだけでなく、<テロリスト>に味方する映画です。

しかしなぜこのような映画が今つくられ、ゴールデン・グローブ賞をすでに取り、アカデミー賞も取ってしまうなら、まさに、現在の“アメリカ人”の<精神分析>が必要よね。

つまりこれは、<9.11>以降の、アメリカ人の罪責感が、“インディアン虐殺”の罪責感と重なった映画で、その罪責感=ストレス発散映画よね。

この映画では、<地球人>は美しくなく、<異星原住民とその世界>の方が圧倒的に美しいわけ、<美しい>だけじゃなく<高貴>なんだね。

“アバター”となって地球人を“裏切る”主人公に、まさに異星制圧部隊の指揮官は、“お前は地球人を裏切るのか”と言うんだが、<地球人>というのは<アメリカ人>のことなのよ(笑)
まあ“イスラエル人”も<地球人>かもしれないが。

単純というのは、悪人と善人がはっきり分かれているということです。

つまり<悪人>というのは、この映画では異星の地下資源を狙う<企業>とそれをガードする<軍隊>ですね。

ぼくが思うに、一般に、現在ぼくらが暮らしている世界の<悪役>というのは、まさに、企業-軍隊-政治家(官僚)-メディア(それに寄生する“知識人”)の4派連合ですね。

この映画は、<単純>なので、そのうちの<企業-軍隊>連合しか描いてないわけ。
しかし、単純ではあっても、このように明確に<悪>を提示していることを、ぼくは支持します。

いうまでもないが、この<4派連合>が、地球の生態系を破壊してきたし、現在も破壊し続けている―というのが<シンプルな真実>なんです。

この<悪の連合>が、未来において、<ほかの星>の生態系をも破壊することと、それに対する<抵抗>をこの映画は描いています。

もしこの映画を、理屈ぬきで、面白いか面白くないか、と問うなら、まちがいなく<おもしろい>です。




Snapshot;10-01-24

2010-01-24 12:33:16 | 日記
★ 映画

今日は映画を見に映画館に行く。

むかし、映画を見に映画館に行くことは、<日常>だった。

つまり<日常>も変わるのである。


★ 死んだ人

あるひとのブログで、加藤周一の追悼文をあつめた本が出たのを知った。

それでぼくが思ったのは、“加藤周一って、いつ死んだんだっけ?”ということだった。
たぶん1周年なんだろうか?
調べると、2008年12月5日であった。

だが、そのブログ(“諸々日記”)に引用されている文章は、ぼくの心を打たなかった。
これは、当然、“加藤周一という人に対する評価”とは関係ない。

この本に収められた“追悼文”にロクなものがなかったか、このブログの引用者がどうでもいい部分を引用したかも、本を読んでみないとわからない。

しかしなによりも疑問なのは、なぜこのブログの書き手は、<みずからの言葉で>加藤周一を<追悼>しないのか、ということだ。

ぼくもこのブログで<引用>しているし、<引用>は良いことだと思っている。
しかし自分に大切な人物を追悼することぐらい<自分の言葉>でおこなうほうがよい(笑)のではないか。


★ 引用

ぼくがある本から<引用>するとき、“してはいけないこと”と思っている“規制”がある。

A:自分の“説”を代弁させたり、強化するための<引用>はしない
B:すなわち、自分がそこで(本を読んで)、あらたに知ったり、驚いたり、触発されたこと(文章)を引用する

つまり、その本を読むまで、自分が気づかなかったこと、知らなかったこと、を引用したい。


★ 加藤周一

加藤周一という名のひとについて、現在、どう考えたらよいのか。

それは加藤周一というひとの、<生き方>と<仕事>を検討することである。

“これまでにも”ぼくは、<加藤周一>を読み、テレビでその話し振りを<見た>こともある。

そこで漠然と形成された<印象>というのは、たぶん<偏見>である。
つまり過剰に評価するか、過剰に貶す。

つまり“ぼくにも”偏見がある。

ぼくは加藤周一が“政治的なひと”だとは思わない、“美的”なひとである。
この<評価>にも、良い面と悪い面がある。

たとえば、“一般に思われている”のとは逆に、ぼくは加藤周一より大江健三郎に<政治的な感性>があると思う。
ぼくが大江健三郎の“政治的発言(振舞い)”に、目を覆いたくなる(笑)にしてもだ。

“政治的な加藤周一”でぼくが好きなのは、“敗戦前から敗戦直後”の彼の<態度>である、それ以後は、いただけない。

彼の晩年の仕事は(寺子屋的活動はあったようだが)、要するに、朝日新聞連載である。
この<仕事>についても、“教養あふれるニュートラル”であった。

が、当時ぼくは朝日新聞を取っていたにもかかわらず、この連載をめったに読む気になれなかった。
あまりにも“漢文の素養”が強烈で、ぼくの感性からズレた。

しかし、ぼくが加藤周一氏を“評価していない”(学ぶことがない)などということは、まったくない(笑)

戦後<有名知識人>のなかでは、加藤周一氏は、“気分が良い”ひとである。

しかし<そのこと>自体が、現在、<疑問>でもある。


★ 映画

まもなく「アバター」を見に妻と出かけます。

なんの<期待>もなく(爆)






新たな境界

2010-01-24 10:55:11 | 日記


十川幸司『来るべき精神分析のプログラム』読了。
ぼくとしてはめずらしく、同じ著者による本をわりと短期間に(といってもそんなに短い時間ではなかったが)読んだことになる(直前に読了したのは、岩波思考のフロンティア『精神分析』である)

ぼくはここで、なにを学びたいと思い、なにを学べたのだろうか。
それを整然と箇条書きにすることはできない。

もちろん知識=情報として自分の知らなかったことを、得ることもできた。
十川氏は、この2冊の本において、分析医として、また同時に理論家として語った(書いた)
自分の臨床経験と、これまでの精神医学、精神分析<理論>の激突のなかで語った。

ぼくはこの本を読んでいて、たくさんの“引用すべき個所”を見出した。
つまりここには<無意味でない言葉>がたくさんあった。

しかしこれらの<読書>を終えた今、それらの本から受け取ったものは整然とはしていない。
むしろ新たな混沌(カオス)を感じる。
このことが、ぼくを新たな読書に向かわせる。
たとえばいずれも“読みかけ”の、フーコー『知への意志(性の歴史1)』やドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』へ。

この『来るべき精神分析のプログラム』の最後に取り上げられているのは、ジャン・ジュネの『恋する虜』である。
この『恋する虜』という本は、かつて訳者の鵜飼哲氏の文章を読んだときから読みたかった。
しかしこの本は現在、新本では入手できず、Amazonマーケットプレイスで16,000以上しているので、購入を断念した。
ジュネ翻訳を出している河出文庫での復活を望む。


この本から、もし<ただひとつのメッセージ>を受け取るなら、それは、<新たなる境界の形成>ということである。

それは、<自己システム>の作動を更新することである。

ぼくたちはみな、自己システムの作動を更新することによって、現在の自己を得た。
しかし、<そこ>にとどまることはできない。

ぼくたちはつねに、この<境界>を変更しつづける。
その<更新>は、<精神>あるいは<こころ>の内部に自閉することではない。

われわれは徹底的に<社会的>な存在であり、<わたし>は徹底的にこの<世界>とともにある。

すなわち、<世界のなかの私>を変更することは、この世界を変更することである。

ジュネは最後に、<パレスチナ>において、<恋人>を見出した。



かつてPaul Simonは歌った;

雨があがると
虹がでた
でもそれは真っ黒だった
その虹に色がなかったからじゃなく
その町のみんなにイマジネーションが欠けていたから
すべてが同じものだった
ぼくの小さな町では

ぼくの小さな町では
ぼくは何者でもなかった
父さんの子である以外は
カネをためて
栄光を夢見ていた
引き金にかけた指みたいにひきつって
死者と死んでいく人しかいない町を離れる
ぼくの生まれた小さな町を

死者と死んでいく人しかいない
ぼくの小さな町
死者と死んでいく人しかいない
ぼくの小さな町を
<My Little Town>


現在のぼくたちにも、決定的に欠けている、<イマジネーション>が。

だから“あらゆる虹”が、<真っ黒>にしか見えない。

<すべてが同じもの>だからだ。

<この町>の境界を越える。

<この町>から出てゆく。