★ 「赤革のトランク」、そして「水死小説」。電話があった日、私は老年とはいえまだ残っている小説家的昂揚に取り憑かれるようであったのだ!私は陽の高いうちに仕事場兼寝室へ引き揚げてカーテンを閉ざし、ベッドに横たわった。まだ学生で書き始めたので、ろくな現実経験もないこの小説家はすぐ行きづまるだろう、それとも近頃の若手らしい奇抜な転身をはかるつもりか、と揶揄(やゆ)されたものだ。それでも私はたじろぐことがなかった。時がくれば、「水死小説」を書く。そのための修練を重ねているのだ、と。「私」としてその物語を書き始め、水底の水の流れのまま浮きつ沈みつ、ついに語り終えた小説家は、一挙に渦巻きに吸い込まれてしまう・・・・・・
<大江健三郎;『水死』(講談社2009.12.17)>