Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Snapshot;ヴァージン・ロード-渋谷-純粋理性批判

2010-01-15 22:11:35 | 日記


★ ヴァージン・ロード

仕事に行く電車で、目の前に貼ってあるステッカー広告をおもわず見てしまった;
“父がぎゅっと手を握りしめたので 21mあるヴァージン・ロードが涙で見えない”

とかなんとか(最近記憶力が落ちているので、“原文どおり”ではないかも)
結婚式場の広告ね。
それで、思いついた。
このヴァージン・ロードに、“処女判別センサー”をとりつけ、その上を歩いたら、式場の電光掲示板に処女なら“白が点滅”、そうでないなら“赤が点滅”にすればよいのではないか、クイズ番組のように盛上がるであろう(まあ、色は好みで変えてもいいよ、でも“紅白”が好きでしょう?)

ぼくは結婚して40年ちかくになるが、結婚式の経験なし。
ぼくが好きな結婚式は、2本の映画。
式場から花嫁を略奪する男と、結婚式で花嫁に殴り倒される新郎。


★ 渋谷

今日も仕事の帰り、気になる岩波新書の1冊を買いに紀伊国屋書店に行った(その本はなかった)
ついでに文春文庫新刊の藤原新也『渋谷』を買う。
今朝、不破君と“渋谷”を話題にしたばかりだ。

この本の第3章には藤原氏の写真と短文がある、そのなかで好きなもの;

スクランブル交差点のデジタルビルボードから
とつぜん山口百恵の「秋桜(コスモス)」が流れる
群集のなかでたったひとり立ち止まり
聞き耳を立てながら空を見上げている初老のホームレス


★ 純粋理性批判

光文社古典新訳文庫の新刊で、カント『純粋理性批判1』出る、翻訳は中山元(このひとはフランス語もドイツ語も訳せるんだね、驚異!)

新訳とか“わかりやすい訳”が、良い訳であるとはかぎらない。
しかし、この翻訳が出なかったら、ぼくは解説書は読んでも、カント自体を読むことは、なかったと思う。
そういう意味では画期的である、長谷川宏訳の『精神現象学』も文庫にしてほしい、ほかのひとの訳で文庫にするのもいい;

《わたしたちのすべての認識は経験とともに始まる。これは疑問の余地のないところだ。認識能力が対象によって呼び覚まされて活動し始めるのでなければ、そもそも何によって動き始めるというのだろうか。対象はわたしたちの感覚を触発するが、対象みずからが感覚のうちに像を作り出すか、人間の知性のもつ能力に働きかけるのである。働きかけられた知性は、対象の像を比較し、これらを結びつけたり分離することによって、感覚的な印象という生(なま)の素材から、対象の認識そのものを作りあげるのであり、この活動が経験と呼ばれる。だからわたしたちのうちの認識において、時間的にみて、経験に先立つものは何もない。すべてが経験とともに始まるのである。》
<カント『純粋理性批判』序論・書き出し>

柄谷行人『トランスクリティーク』も岩波現代文庫で出た。
いくら文庫好きといえども、この『トランスクリティーク』は“定本柄谷行人集”版で買ったばかりなので、文庫では買わない。
この本もまだ途中だが、意外と読みやすい。

ヴァージン・ロードと渋谷と純粋理性批判は、ぼくのなかで同居している。




不破利晴への手紙 10-01-15

2010-01-15 10:49:10 | 日記


★不破利晴コメント

テロリスト (不破利晴)  2010-01-15 03:12:43

なぜかテロを待望する気分である。
八王子はいいので、渋谷の「109」など思い切り爆破して欲しい、ということを、実をいうと9.11のころからずっと思っていた。
なぜか日本は平和ですよね。もちろんテロの負の面など分かりすぎるぐらい分かっているのですが、でも、何でしょう?どうも破壊への衝動が吹っ切れないでいます。ああ、僕は病んでいる



★ 返信

不破君

君は病気ではない健康だ(笑)
もっと正確にいうなら、“外人”は知らないが、“日本人”は全員病気だ。

しかも、最近病気になったのではなく、“少なくとも”戦後ずっと病気だ。
“戦後”というのは、ぼくが戦後しか生きていないからだ。
この<病気>がどこからきたかを、究明するのが、ぼくの残りの人生だ。

最近、渋谷に行くことはほとんどないが、たまには行く。
新宿には、しょっちゅういる。
その群集とすれちがうときには、ぼくも殺意を感じる。
ぼくの唯一好きだった店とかが、閉店になる。
歌舞伎町映画街は、ただ通り過ぎる場所でしかない。

映画はテレビでしか見ないから3,4年遅れだが、これらの“アメリカ”映画やテレビドラマを見ていると、映画というものが、まったくアメリカ化され、痴呆的な活動写真になったことがわかる。
昨夜も「氷の微笑」というアメリカ映画を見たが、この昔くだらないと思った映画が、<今の映画>よりは、ずっと丁寧につくられていたことがわかる。
つまり昔くだらなかった映画が、良い映画に見えてしまうほど、最近の映画は劣化した。<注1>

しかし、家にいるときには、ぼくはテロを望まない。
良識が稼動するのではなく、たんにそういうことは、望まない。

そして、むしろ“暴力”とか“殺意”について考えたい。
ある意味では、ぼくは社会的な直接的な変化を断念したといえるかもしれない。

このぼくの心境の君との差は、<年齢>によるもので、君にすすめているのではない。
まだ生きる時間が長い方が、困難だともいえる。

ただ、正直に言って、死ぬのはこわいし、自分が死んだあとを託す<若者>がいないことは、やはり、悔しい。
<ツナミン>に、ではなく、<ツナミンのようなひと>にも殺意を感じる(笑)
彼の“長文ブログ”の徹底的な、くだらなさ。<注2>

たしかに、何を言ってもむなしいし、自分自身も意味ある<行動>などなにひとつできない。
この徹底的無力でしかなかった自分の人生を、<怨念>で終わらせないために、どうすればよいのか。

“ぼくたち”をこの徹底的無力に陥らせている、この<体制=支配>にせめて、一太刀切つけるには、どういう<言説>があるか。

ぼくには、本を読み、愚鈍な(なまけものの)頭で、考えることしかない。






<注1>

観客を愚弄する映画を見る観客がいるということである。

これは<映画>に限らない。



<注2>

ここでぼくが言いたいのは、その<言説内容>であるよりも、”彼等”の<すべてがひとごとでしかない言説>を意味する。

そういう<言説に>、玄人も素人もない。

ブログと”巨大メディア”の差もない。