Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

これまで言われたすべてのこと

2010-01-20 12:18:26 | 日記

このタイトルに掲げたことを“考える”ためには、膨大な言葉がいる。

ただひとつの<ブログ>で“それ”を書くことは、できない。
つまり<これまで言われたすべてのこと>をぼくたちは知ることができない。

<これまで言われたすべてのこと>のほんの一部分をぼくたちは、<読む>のである。
つまり、現在“読み得ない”膨大な言葉があった(はず)である。

それは、よくいわれる、<無言の大衆の言葉>だったのかも知れない。
またこれまたよく言われる、<貴重な証言>とか<時代の証言>とかいった言葉もある。

あるいは、記録されてない言葉を、<想像力>によって復活しようとする言葉もある。

逆に<すでに書かれた>言葉も膨大である。
そのなかから、ぼくらは<聖書の言葉>とか<古典となった言葉>を“参照して生きることもできる。

しかし、それらの<言葉>が、<すべて>である保証はどこにもない。

あるいは(たとえば)<ヘーゲル>が言った(書いた)言葉が、その弟子や出版業界人によって、どのように誤解され、改竄されたかも、わからない(そういうこと自体の研究もあるだろう)

ニーチェの言葉、カフカの言葉、ドストエフスキーの言葉、夏目漱石の言葉、フロイトの言葉、ミシェル・フーコーの言葉……いくらでもある。

すなわち、近親者-弟子-愛読者-ファンが、その“敬愛の対象”を誤解・改竄することも、ままあることを、歴史は証明している。

しかし、ここで提起されるのは、そもそもあるひとの言葉を、“正確に受け取る”とはどういう事態であるか、という問題でもある。

そしてこういう“著名人”ではない、“無名の人々”の証言がある。
フーコーのような人々は、“図書館で”むかしの古文書からこういう<証言>を発掘しようとした。

しかし図書館に残っている証言は、限られている。
ヨーロッパのような社会では、“比較的残っている”といえるのだろうか。
しかし、“この社会”では、古代どころか、<近代>もおぼつかない。
あるいは、<証言>が隠蔽されたり、無視されることも多い。

さて、問題は、<現代>である。

いったいぼくたちが生きる、“この時代”の証言の、<何が残る>か?

何が残るであろうか?

決して残らないのは、<天声人語>の“ような”言葉である(笑)

ひょっとして、<残る>のは、“君のブログ”かもしれない。
そういう<矜持>をもって、ブログに励んでいただきたい(爆)

ほとんど<聞えない声>に耳を澄ます必要がある。

あるいは、<ほとんど聞えない声>への想像力を持つひとを、信頼すべきである。
たとえばベンヤミンである(彼ひとりではない)

たとえば、たまたまぼくは山室信一『キメラ』(中公新書)において、満洲国の歴史における“北のからゆきさん”の存在を知った。
彼女たちの<証言>は、たぶんほとんど“遺されて”いない。

さらにぼくは最近、(たまたま)、テレビの古い映画で、ロシア国境の町へ“流れて”いった女性が、雪の中に消えていく映像を見た。

山室氏の本にはこうあった;
★ 「日本植民地の開拓者は女なり」(平林広人『満洲における邦人接客婦の勢力』1934)という見方がいみじくもありましたように、日本人が満洲へ入っていく先駆けとなったのは、「北のからゆきさん」たちでした。


さて、ぼくが<日本の近代を問う>と言ったなら、またwamgunの大言壮語だと冷笑されるだろうか。
たまたま読んだ本を、大仰にわめきたてる“感情失禁”であろうか?

たしかにそうであるかもしれない。

しかし、そうでないなら、ぼくたちは、何によって<歴史を認識する>のか?

あるいは、<現在の世界を認識する>のか?




”そんな大昔のことは、私にはカンケーない”とあなたは言うだろうか?


しかしそれなら、あなたにカンケーある<現在のこと>とは何か?




ニッポンのカイシャ

2010-01-20 10:01:42 | 日記


あるニッポンのカイシャがトウサンしたそうだ。

“メディア”は語る;

▼ 国家管理という空港に不時着し、会社更生法の格納庫で身軽になる日航。初めての着陸に固唾(かたず)をのんだジャンボ開発陣のように、納税者は再びの離陸を厳しく見守りたい。天候がどうであれ、今度はしっかり飛んでもらう。(天声人語)

◆人に限ったことでもない。かつて“日本の空”の代名詞であった企業が涙のときを迎えている。日本航空が東京地裁に会社更生法の適用を申請した。いわば倒産であり、一からの出直しになる。危機感の乏しい「親方日の丸」体質、小回りの利かない肥満体形、複雑な労使関係…と、閉めた扉のなかで改めなくてはいけないことは幾つもある◆3年以内の再建を目指すという。贅肉をすっきり削ぎ落とし、安全で、安心で、流した涙のぶんだけ素敵な笑顔の翼となって戻っておいで。(読売・編集手帳)


はてさて、ぼくは“日本航空”というカイシャに特に関心はございません。

ぼくが関心があるのは、<ニッポンのカイシャ>ですね。
つまりぼくもずいぶん長い間、ニッポンのカイシャで働いた“カイシャイン”だったから。

ぼくはその前は、“ニッポンのガッコウ”という所にもいたんですね(笑)
<問題>は、そのいずれにも、あまり良い思い出がないことですね。

まあ、かんたに言えば、“いやいや-やっていた”ということです。

つまり、自分の<生涯>を振り返って、“いやいややっていた”ことが、あまりにも多いということです。

まあ簡単に言えば、“社会(カイシャ)不適応性”ということなんだろうね。

まあ“社会に不適応”なひとに対して、<社会>の方は、“君が悪い”とか“すべてのひとに快適な社会なんかない”と<強迫する>わけです。

しかし、ぼくの僻目(ひがめ)かもしれないが、この<社会>で結構楽しい人とか、快適な人も多いようです。
こういうのを<趣味のちがい>と言うんですね(爆)

だからぼくは、先日のSnapshotで、<現実的な社会は、現実的なひとによって成り立っている>というように書いたワケ。

つまりなにが<現実的>かも、趣味の問題ですね。

“カイシャ”の問題にもどれば、“カイシャ”について、とやかく言っている“メディア”も<カイシャ>なんです。

つまり“カイシャ的な人々”が、“カイシャ的な人々”に対して、とやかく言う、のです。
これは限りない、<悪循環>です。

すなわち、その外に出られないのです。

これは<カイシャ>だけでなく、<セイジ>ということにも、まったく正確に適応できます。
現在メディアやその周辺の(ブログとかツイッターとかも含めた)<言論>というのには、<外がない>んですね。

つまり<同じようなひとが、同じことを、いつまでも言っている>という徹底的な<悪循環>なんです。

つまり“ニッポン”という国とか社会には、もはや<外がない>んです。

ニッポン列島の外には、<海>があったはずなんですが。

でも<海>もなかなか見れないですね。

なんか“このレットウ人(列島人?劣等人?)というのは、海よりペラペラな人口イルミネーションに<美>を見ちゃってるんです。

まあこういうのも<趣味のちがい>というんですが、その趣味が、徹底的に“アメリカン”になったのも、“歴史の必然”なんでしょうか?

ぼくは、最近もう歳なので、<昔のこと>とか、<自分の子供時代>とか、<死んだ母のこと>とかを<おもう>よ。

そして<学校時代>の方が、長かった<サラリーマン時代>より、強烈だ。

あの時代に、自分も“他の人々も”決定されてしまった。
つまり<ガッコウ>の強烈さ、ですね。

もちろんガッコウというのは、ダイガクだけではないし(ダイガクに入ったときには、すでに決定されていた、とも思えるが)、たとえば、法学部のひとは法学部のようにしか考えられない、のです。

ぼくにとって、<カイシャ>というのは、決定的に<影が薄い>場所だった。
つまり、“自分の”影が薄いだけじゃなく、“あっちの”(つまりカイシャの人間の関係が)薄かったんです。

このブログを読む<若者>が、60歳を過ぎたとき、それについて<ドーおもう>かが、興味深いが、その時、ぼくは<彼らから>それを聞くことはできない。

残念!

だからぼくは、いま、本を読む。


ひとに会いたいからね。






* 写真は、ヒコーキに乗ると海が見えるという<説明>である。
日本航空は、このヒコーキを飛ばす会社であるから。
海も見えるし、島も見えるし、列島も見える。

もちろん雲しか見えないときもある。
ああヒコーキからは、<ひと>が見えない!