Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

子供たちの時間

2010-01-31 18:47:23 | 日記


★ この日、日掛けの集金をやすませてもらった田中屋の正太は、表町組の店を見まわるうちに、団子屋の背高から美登利にその日が訪れたことを耳にする。団子屋の背高にはどうやら隠しおおせたものの、正太が受けた衝撃の深さは、ほとんど無意識のうちに口をついて出るそそり節の一節にまぎれようもなく露にされる。

★ 正太が口ずさむそそり節の類型化された哀調は、この「結約証書」(注;明治時代の妓楼と遊女のあいだにかわされた契約書)に凝縮されている契約の非情さとうらはらの関係にある。もちろん、正太はこの一枚の証書によって決定される美登利の過酷な運命を見とおすことができないし、それは一葉自身によっても書かれなかった余白の部分である。しかし、正太にとって大人になることは、結局は金銭がつくりだすこうした非情な関係に入りこむ以外のなにものでもなかったのだ。

★ 団子屋の背高に別れた正太は廓の角で大黒屋の番頭新造につきそわれた美登利と行きあわせる。「初々しき大嶋田」に姿をかえた美登利は、正太の眼には、「極彩色のただ京人形を見るやう」に映る。しかし、何時になく家路をいそぐ美登利の態度を、「何故今日は遊ばないのだろう」といぶかしむ正太は、美登利の変身が意味するものからとおくへだてられている。大人の世界に迎えとられてしまった美登利と、子どもの世界にとりのこされている正太との残酷な対照が一瞬のうちに照らしだされる卓抜な場面である。

★ 美登利にゆるされていた子どもの時間が閉ざされてしまったとき、大音寺前の子どもたちの時間も終わりを告げる。(略)大音寺前を賑わわせていた子どもの世界を跡かたもなく崩してしまった見えない力の正体が、「近代」そのものであったとすれば、それは『たけくらべ』に導かれて子どもの時間へと遡行する旅を終えたばかりの私たち自身が引きうけなければならない原罪なのである。

<前田愛“子どもたちの時間”―『都市空間のなかの文学』>




アカルイ老後

2010-01-31 14:30:22 | 日記


60過ぎの方々、もしくは、もうすぐ60代を向かえる方々、に呼びかける。

アカルイ老後をめざそうではないか!

もしあなたに、まだ権力があるなら、放棄せよ。

もしあなたが、“若者”に差別されているなら、彼らの愚かさを、許せ。
若者も、また、老後をむかえないはずは、ない(のだから)

あるいは、“かれら”が、みずからの愚かさによって、現在より無意味な社会を形成するとしても、“ぼくら”は、もう生きてはいない。

しかし、<孫>が気になり、<人類の未来>とか、<文化の継続>が気がかりだろうか。
それなら、あなた(にも)やることがある。

けれども、あなたが、“もう休みたい”と思うのも、もっともなことである。

おすすめの<音楽>は、キース・ジャレットのトリオ演奏とグールドのバッハである(ピリスのモーツアルトもよい;笑)

たまには、“グランド・ファンク・レールロード”の<HEART BREAKER>で涙を流してもよい。

いずれにしても、このイルミネーションばかりで明るい<世間で>、だれからも無視されても、輝け!   じんわりと。





ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ





Snapshot;学校という恐怖

2010-01-31 12:43:46 | 日記

★ なんか、「学校の怪談」というような映画があったようだが、<学校>という場所やシステムやそこでの“人間関係”が、<怪談>そのものである。

★ “ブログ”とかを見ていても、その書き手が(現在学校にいなくても)、学校にいたとき、どんな<位置>にいたかが推測される。

★ つまり“クラス委員長”タイプとか、その“補佐官”とか、“掃除当番主任”とか、“ガリ勉タイプ”とか、“ちょいグレ-タイプ”とか、“お笑いタイプ”とか、“ちょいギレ-タイプ”とか、“無気力タイプ”とか、“弁論部タイプ”とか、“体育会タイプ”とか、“ナンパ系”とか、“いじめられっ子”とか、“デレデレ系”とかである。

★ そうだね、<世界>を見てもわかる、“オバマ系”とか(爆)
昔は、<コイズミ系>とか<ホリエモン系>とか<タモリ系>とか<たけし系>とか<エーちゃん系>とか<下手なダンス系>というのもあったなぁー。

★ 最近仕事で、“コミュニケーション”についての<現在アメリカ理論>というのを、聞いたが、印象的だったのは、“コミュニケーションが苦手な職業”の典型は、<教師>だという(笑)

★ しかし、かつて柄谷行人は、“教え-教えられる立場”こそ、“命がけの飛躍”だと言った。

★ さて、学校での<関係>が、すべてを決定してしまう。

★ “余生”は、そこで身につけた<関係>を反復するだけだ。
<会社>でも<家庭>でも<老後>でも。
だからこんなに<たいくつなひと>が多いのだ。

★ つまり、“NEET”だろうと、“ひきこもり”だろうと、“ホームレス”だろうと、“引退老人”だろうと、“社会から脱落したひとびと”も、<永遠のガッコウ>で暮らしている。


<キング・オブ・ホラーから引用>

★だが飛行機がふたたび雲から出て揺れもなくなると、2万7千フィートのここで鳴っているのはたくさんのベルだ。たしかにベルだ。ベン・ハンスコムが眠るとそれはあのベルになる。そして眠りにおちると、過去と現在を隔てていた壁がすっかり消えて、彼は深い井戸に落ちていくように年月を逆に転がっていく―ウェルズの『時の旅人』かもしれない、片手に折れた鉄棒を持ち、モーロックの地の底へどんどん落ちていく、そして暗闇のトンネルでは、タイム・マシンがかたかたと音をたてている。1981、1977、1969。そしてとつぜん彼はここに、1958年の6月にいる。輝く夏の光があたり一面にあふれ、ベン・ハンスコムの閉じているまぶたの下の瞳孔は、夢を見る脳髄の命令で収縮する。その目は、イリノイ西部の上空に広がる闇ではなく、27年前のメイン州デリーの、6月のある日の明るい陽の光を見ている。
たくさんのベルの音。
あのベルの音。
学校。
学校が。
学校が

終わった!

<スティーヴン・キング『 IT 』第2部“1958年6月”の第4章“ベン・ハンスコム、ノックダウンのふりをする”>






<追記>

ぼくに<反-学校>のイメージを喚起したのは、『テヘランでロリータを読む』という本の書評に引用されていた言葉だった。

これについてDoblogに出したものの下書きを探したが発見できない。
ゆえに、今、Amazonマーケット・プレイスにこの本を注文した。
この本を読んでいないことが、怠惰だった。

それで、もうひとつスティーヴン・キングから引用しよう。
思うに、キングは、現代の<学校生活>をビビッドに書き得た作家であった。

この引用部分は1966年にメイン州立大に入学した主人公の回想である;

★ 「おっと、あれはなんだ?」ネイトが言った。足をとめて頭だけうしろにむけ、なにかをじっと見ている。スキップとわたしも足をとめ、背後に目をやった。ネイトになんのことかと質問しかけたところで、それが目に飛びこんできた。ストークはデニムジャケットを着ていた。その背中に、黒い油性マジックで書かれたとおぼしき、丸で囲われた模様のようなものがあるのが、初秋の夕暮れの薄れてゆく光のなかでかろうじて見えた。
「あんなの見たことないな」スキップが言った。「雀の足跡みたいに見えるが」
松葉杖をついた若者の姿は、変わりばえのしない十月の変わりばえのしない木曜日の夜に、変わりばえのしないコモンズへとむかってくる学生の群に飲みこまれていった。大半の男子学生はきれいにひげを剃っていたし、大半の女子学生はピーターパンカラーのついた<シップ&ショア>のブラウスとスカートという姿だった。満月に近い月がすでに空にのぼって、オレンジ色の光を学生たちに投げかけていた。<フリークスの時代>が最盛期を迎えるのはまだ2年ほど先で、わたしたち三人のだれひとり、たったいま自分たちが生まれてはじめてピース・サインを目にしたことに気づいてはいなかった。

<キング;『アトランティスのこころ』(新潮文庫2002)>






ぼくは<スティーヴン・キング>と<サリンジャー>と<カフカ>のいずれが、“客観的に”すぐれた作家であるかを、しらない。

しかし、<キング>が、好きであり、ぼくにとっては重要な作家であることは、知っている。





Snapshot10-01-31

2010-01-31 10:58:21 | 日記


★ 時間

今日で2010年の1月も終わりであるという、今月が今年(2010年)の最初の月だったことを思い出す。


★ Twitter

不破君や鳥男君がTwitterをやっているので、ときどき、“Twitter”というものを見てみるのだが、そこで驚くのは、“驚くような発言がない”ということである。

しかしぼくは“Twitter”発言を全部見たわけではないので、“どこかに”あるのかもしれない。

しかし単純に驚くのは、“政局”にたいする話題の多さである。
このことだけでも、ぼくにはTwitterは退屈である。

なぜ“彼ら”は、<自分の問題>を語らないのか?


★ブログ

ならば、“ブログ”が面白いかというと、ぜんぜん面白くない。

ひとことで言って、ブログを書いているひとたちも、ぼくよりほとんど年下なんだが、“彼らの感じ方”は、どうしてこうも<古臭い(年寄りくさい)>のだろうが。

<常識的道徳観>でがんじがらめである。

あるいは、ちっとも新しくないことを、新しいとおもったり、“いいふるされてきたこと”を自分の独創(ユニークネス)のように語る。

こっちは、ただ恥ずかしい、だけである。


★ おろかな共感

なんかどんどん狭い場所で、<共感>したがっている。

いや<共感>してしまっている。

そのこと自体が、<閉塞>であり、アンチ・コミュニケーションである。

要するに、自分が聞きたくないことは、聞かないだけだ。

<ムズカシイ>ことは、ネグレクトする、排除するだけだ。

まるで<信仰>のように、<他者>を自分の仲間であるか、そうでないかに、<選別>するだけだ。


★ コメント

ブログで面白いのは、“本文”ではなく、“コメント欄”である。

つまりそのブログでは、どのような<共感>が実現されているかがわかる。

ところが、“第3者”から見ると、そこにはなんの<共通点>もない(笑)

人間というものは、まったく他者の言うことを聞いていない(誤解している)ということが、わかる。


★ 商売

ぼくは時々、“商売人”という言葉を、“けなし言葉”として使うが、かならずしも、<商売>が悪いとは思わない。

良い商人と、悪い商人がいる。

ぼくは、直接モノを売った経験がほとんどないが、仕事でごくささやかなモノを直接売ろうとした時、とても充実した。

ぼくは<ブログ>をやっているのも、ささやかな<商店>を出していることだと考える。

だから“品揃え”も豊富なほうがいい。<注>

なによりも、“更新しない”商店などというのは、どうかしている(体調不良などの場合はやむをえない)

さっぱり更新しないブログを、<毎日>見ると、“このひとは便秘体質ではないか?”といぶかる。

好意的に考えれば、<そういうひとたち>は、ぼくのように<軽薄>でないらしい。

なにか<深遠>なことを、<熟考>しているらしい。

しかし<ぼくの経験>では、人生は短い。

”平均寿命”が、いくら延びようとも。



<注>

たしかに、”量より質”ということも、ある。

しかし、質もわるいのに量もない<商店>にだれが行くだろうか。

もちろん、量はあるが、”みな同じ”品揃えでは、飽きがくる。

つまり、”サービス精神がない”ということは、自分勝手であり、ほんとうは<他者>のことなどぜんぜん考えていない。

せいぜい、自分と”ママ-パパ関係”が、あるだけである。