久しぶりに琉球史跡めぐりの記事です。
肝高の阿麻和利公演の時に
寄ろうと決めていたこの方のお墓。
尚宣威(しょうせんい)王です。
尚宣威王は第二尚王統の2代目の王様です。
そうです。
金丸の弟です。
金丸が伊是名から追われてシマを出るときに
一緒に連れ立ったのは妻とこの弟。
こちらにあった石碑や正史「中山世鑑」によると、
尚宣威が5歳のときに父母と死に分かれ、
兄である金丸が実際には育ての親であったとか。
とりあえず、それくらい歳が離れた兄弟だったということですね。
(幼い尚宣威を世話する青年金丸象…。いいね… ( ̄ー ̄))
で、9歳のときに伊是名を脱出。
24歳のときに首里に出仕したのだそうです。
41歳で越来王子、
7年後の48歳で即位、
そして退位、死去。
金丸の在位が1469年~1476年の7年間なので、
越来按司になってた賢雄の死去後、つまり金丸即位後
すぐに越来王子になったってことですね。
うむむ、分かりやすい…。
しかしこの人もかわいそうでねぇ…(ノД`)
即位の際、神から祝福されるはずだったのですが、
下された神託は尚宣威ではなく、
甥の尚真を祝福するものでした。
つまり、
「この人は王の器にあらず。尚真こそが王になるにふさわしい」
と全否定されてしまったのです。
当時、神女(神)からのお告げは絶対的な力を持っていたため、
神からのダメ出しにショックを受けた尚宣威は
そのまま王位を尚真(当時12歳)にゆずり、失意のまま越来に隠居。
しばらくして帰らぬ人となりました。
在位は第一尚氏王統の歴代の短命王様もびっくりの半年。
だから冊封(中国皇帝からの正式任命)も受けていません。
(なので正式には尚宣威というよりも、宣威のみ?)
ちなみにこの神託も尚真の母(つまり金丸の妻)であるオギヤカの陰謀であったのでは
というのが有力視されていますね。
(ちなみにこのオギヤカは伊是名から脱出したときの妻ではないのだな)
幼いころから金丸とともにあって結構波乱万丈な人生だったはずなのに
その人となりはあまり知られてなくて
(石碑には尚円王に劣らぬ徳行家ってあるけど…)
もっといろいろドラマがあったはず、と思ってる人物です。
ちなみにこの場所、だいたいこの辺、というエリアは分かってましたが
一応まだ行ったことなかったのでネットで調べてから行ったんですが、
このサイトのこの地図、
間違ってます ( ゜д゜)
地図を信用してたので
「あれ~~~?この地図だと普通の民家だけど???
まさか民家の敷地内?いや、そんな情報は聞いてないし…」
…と、とりあえずこの付近であることは確かなので
「あやしい」と思われるところに目星をつけてしばし車でウロウロ…。
やっぱ、無理か。出直すか…
と思った矢先に、
見つけました。
案内板!
ビバ、ワタシの勘(笑)
(いや結構メインストリート沿いだから見つけやすいかもですが
最初裏道っぽいところばっかり探してたので発見遅れました…(^-^;))
しかし、不法投棄の警告看板があちこちにたてられてて
つまりはそういう場所になってて、
とても王様の墓とは思えないような環境でした…。
でも崖下風葬の名残が所々で見られて
ある意味雰囲気はありましたけどね…。
(盛り塩がこんなに所々にあるお墓も初めてのような…)
もうちょっと、尚宣威にも光を当てたいと思った
尚宣威のお墓参りでした。
場所は沖縄市の美来工科高校の裏、
学校給食センターと越来ポンプ場のある十字路のすぐそこです。
ちなみに、尚宣威、描いたことありますよ(´ε`)
こっちで。