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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『企業とは何か その社会的使命』P.F.ドラッカー(著) 2

2006年08月26日 | Book
『企業とは何か その社会的使命』P.F.ドラッカー(著) 1)からの続き

アメリカにおける理想主義と物質主義、個の尊厳と機会の平等

ドラッカーにとって分権制が理想なのは、それがより高い経済的パフォーマンスを実現するからではありません。実際彼の観察によれば、GMのすべての事業部が分権制に則って運営されているわけではなく、またそれでも効率よく運営されている事業部が存在していました。彼にとって分権制が重視されるべき理由は、「第一に社会の自由に関わる問題であり、第二に完全雇用にかかわる問題」でした。

最初に述べたように、ドラッカーが政治学者でありながら資本主義経済体制の分析を重要と考えた理由は、1946年という時代の中で、経済発展を拒否して戦争にのみ存在理由を見出すナチズムと、経済発展のみを目標に掲げる社会主義体制が広まる欧州に対して、自分が移住してきたアングロサクソンの国が代表する資本主義体制の中に、ナチズムと社会主義が否定する人間の尊厳と自由を確保する余地の可能性を見出したいがためです。それゆえ彼にとっては、分権制の意義は経済パフォーマンスのみによって測られてはならず、むしろそれが人間の自由を実現しているか否かが問題にされるべきでした。そう考える彼にとって分権制は、リーダーシップを持つ個人を増やすという点で、一つの注目すべき企業形態でした。

上でも述べたようにドラッカーはこの分権制とアメリカの文化との間につながりを見ています。彼によれば、「ヨーロッパの大陸諸国は30年戦争(1618-1648)以降、倫理的なものとしての社会を捨て、ひたすら政治の絶対視と無視の両極の間をうろついてきた」のに対し、アメリカでは社会それ自体が目的とされることはなく、同時に社会そのものを個としての人間の倫理的な価値と無関係の功利的な手段とされたこともないと言います。「アメリカは、国(nation?)、国家(state?)、人種(race?-引用者)に絶対的価値を付与する社会至上主義と、法を倫理的な価値とは関係のない交通法規扱いする社会的功利主義のいずれをも拒否する」(119頁)。

著者はアメリカの政治文化の特質を、個人と社会の関係を対立するものではなく、「物質的な社会組織に倫理的な意味合いを付与する」ことによってその対立を止揚
する点に見出します。「アメリカは、物質的な制度と物質的な進歩は、それ自体が目的なのではなく、理想の実現のための手段であるとする点において、信じられないほどに、そして時には幼稚というほどに、理想主義的である」(120頁)。

(アメリカの出版界において、物質的な成功を手引きする成功哲学書と、倫理的・霊的な価値の再発見に導くスピリチュアルな書籍がつね同時ににベストセラーになるのも、この伝統と結びついているのかもしれません。またアメリカのこの傾向は、日本を初め世界中に広がっています)

ここで、アメリカの国民にとって「信条」というものの重要性が注目されます。

著者から見れば、アメリカ人が「アメリカ」という国家を信じるのは、それが共感できる信条を体現しているからです。それに対してヨーロッパ諸国民は、(例えばナチズムを嫌悪しながら国のために戦うドイツ兵士のように)愛国心は人間本性のものであって、その時々の信条に左右されるものではないと考えます。アメリカ人には、国それ自体を重要と考える思想を持ちません。それゆえアメリカ国家は、国民をひきつけるには、つねに何らかの信条を表明しなければなりません(121頁)。

では、アメリカ社会の「約束と信条」とは何かという質問に対して、ドラッカーは次のように答えています。

「アメリカの政治哲学の基本は、個としての人間の重視という、際だってキリスト教的な思想である。ここから第一に、正義の約束すなわち機会平等の約束が生ずる。第二に、自己実現の約束、よき生活の約束、より正確にいうならば一人ひとりの人間の尊厳の約束、すなわち位置づけと役割への約束が生ずる」(124頁)。

このように、「個」を尊重することが同時に社会の公正を要求するところに、アメリカの人々の求める要求の特徴があるのかもしれません。「個」を尊重して欲しいから干渉を排除するのでもなく、社会の公正を要求するから個が社会に奉仕するのでもない。「個」を尊重するために社会の公正を保証することを、同じことですが「個」を尊重するシステムとしての社会の公正をアメリカの人はアメリカ社会と国家に要求します。

この個と社会の公正との関係は、著者が次に述べるように、表面的に考えれば対立します。

「前者(個の尊厳 引用者)は、個たるには人間としての尊厳を必要とするとし、後者(機会の平等 引用者)は、人間としての尊厳は社会とのかかわりによって得られるとする。すなわち前者は、一人ひとりの人間は社会に意味を見出せなければならず、社会は一人ひとりの人間のために存在するとする。後者は、社会的な地位は一人ひとりの人間の能力と成果によって得られなければならず、一人ひとりの人間は社会における働きによって規定されるとする」(127頁)。

著者によれば、この二つのうち「個」の尊厳のみを考えたのが「フランスの封建社会」であり、機会の平等のみを考えたのが「十七世紀イギリスの平等主義」でした。これら二者択一でしか個と社会の関係を考えられない欧州諸国に対し、アメリカの強みは、この二つがともに互いを必要とすると考える点にあるとドラッカーは見ます。つまり、機会の平等という思想と制度的保証がなくては、個に対して社会的な位置づけ、役割、意味という尊厳を与えることはできないし、個が社会的な位置づけと役割という尊厳をもてる社会でなければ、機会の平等という社会的正義を人々が実現するための精神的・物質的資源は存在しないということです(127頁)。

二〇世紀のアメリカにおいて、「中流階級」という思想が勃興したのも、上記のこと社会の関係についてのアメリカ人独特の考えが影響していたと著者は見ます。

「中流階級」という思想は、上流と下流の間にある階級ということを意味しません。社会を区分した中でのひとつの集団ということを意味しません。中流階級社会とは、すべての人が同じ価値観をもつ社会を意味します。

アンケート調査で中流と答える人は、自分の位置づけを所得と地位から算出したわけではなく、またどれだけの富者と貧者、強者と弱者がいるかを考えたわけでもありません。彼らが自らを中流階級と規定したとき頭にあったものは、アメリカには生活のあり方は一つしかないということでした(125頁)。

このような(当時の)アメリカの人の中流意識の根底にある態度をドラッカーは次のように描写します。

 「親しみやすい。人をうらやましがらない。地位を敬いもしなければ、畏れもしない。時として平凡と順応を大切にする。・・・
 平等感がアメリカの特性であることに変わりない。それは、社員が社長に会えること、幹部用のエレベーターのないこと、偉そうな態度を嫌うことに表れている。
 同時にアメリカ人にとっては、中流階級社会とは、誰もが意味ある充実した人生を送ることのできる社会のことである。事実、これまでの中流階級擁護論も、中流階級にある者だけが尊厳のある生活、すなわち個としての位置づけと役割をもつ人生を送ることができるというものだった。
 この中流階級のコンセプトには、社会における位置づけは社会への貢献によってのみ規定されるとの意味合いが含まれている。ここにおいても、中流階級社会には、上流階級は存在しえないことが明らかである」(126頁)。

つまり「中流階級」という概念は、誰もが個の尊厳を満足させる固有の役割をもち、その役割が社会の機能と結びついていることを理想としている状態としているのであって、是正されるべき物質的な格差を前提していない。それゆえこの社会は、誰もがそれぞれの正義を果たし、また果たすチャンスが与えられているという点で、「正義の平等にもとづく無階級社会」(126頁)です。


産業と市民性の調和

そこでドラッカーの探求は、実際の資本主義社会が「個」の尊厳を人々にもたらすにはどうすればよいかという問題に向かいます。彼はそれを、「産業の現場に市民性をもたらす」と描写します。

ここから彼は、具体的な事例をいくつか見ていきますが、それらに共通するのは、「提案制」など、いかにして生産方法・労働条件の改善などに労働者の主体的な参加を促すかという問題認識であり、私は詳しくありませんが、おそらく20世紀の経営学で幾度も取り上げられた事例だと思います。

ただ私が10年以上前に受けた「経営学」の授業を思い出しても、経営学で取り上げられていた従業員の職場における主体的参加という問題認識が、いかに企業の生産性を高めるかと言う視点から論じられていたのに対し、ドラッカーはあくまで政治学者としての視点から、どうすれば労働者が産業社会の現場で「市民性」を回復できるか、自己の尊厳を取り戻すことができるかを考えていた点です。

労働現場における主体的参加の可能性は、ドラッカーにとって、ナチズムと共産主義に対して資本主義が強みを発揮できる特徴であり、またそれがなければ資本主義は歴史的な存在意義がないと言えます。彼にとって資本主義の存在意義は決して経済パフォーマンスの良好さにあるのではなく、市民に生きる意味を与えることができるかという点にありました。


何度も述べてきたように、働く場に「市民性」をより多く回復させる一つの手段が分権制であり、それによってより多くの労働者は自らの労働に対しイニシアチブを発揮できる余地が生まれます。

またその分権制を効率よく、つまり人間関係の恣意や感情ではなく、個々人がフェアで対等な関係を保つために、個々人のパフォーマンスを客観的に測定することが求められ、例えば「コストとシェア」といった基準が採用されます。

このことは、市場原理にもとづいた利益獲得といった経済活動の基本的特徴が、個々人のパフォーマンスをより客観的に・フェアに・他人の恣意に邪魔されずに、測定される可能性を生みます。市場を通じた測定により、個人と個人は対等な関係に立ち、自らの労働に取り組むことができます(理想としては)。

おそらくドラッカーにとっての(当時の)ジレンマは、このように個人が自らの仕事に誇りを取り戻すことができるのは、資本主義経済・市場経済だけであるという認識と同時に、政治学者として、すべての人の幸福は資本主義経済では達成できないのではないかということだと思います。

後期の著作では後者のような理想主義的な観点は彼から失われていったかもしれません。しかし、ナチズムと共産主義に対抗して資本主義こそが人類に幸福をもたらす可能性を必死で探るドラッカーにとって、資本主義企業はたしかに他の社会体制よりも多くの個々人に生きる意味と個の尊厳をもたすのと同時に、失業の不可避性をも含んでいることは、解決困難な問題だったのだと思います。

それに対する彼の処方箋は、雇用を生み出す資本財生産のために政府が支出すべきなど、かなり時代に制約された提案になっています。ただ、個の尊厳は社会における位置と役割によってもたらされると考える彼にとっては、完全雇用は資本主義が決して手放してはならない課題だったのでしょう。


これまで見てきたように、この本は大量生産社会が本格的に機能し始めた時期のアメリカで書かれ、その生産原理が前提にされています。その意味では一見古く見える記述も少なくありません。

ただ、大量生産社会を行なう超大企業という前時代的な例を挙げながらも、ドラッカーが考える問題は、どのような企業形態が人々に幸せをもたらすかという問題であり、その視点から、巨大組織においても個々人が主体性と権限をもって活動できる可能性を示そうとしました。その意味では、この書の分析は、事実の中から彼にとって理想と思われる部分を抽出して、あるべき組織と労働のあり方のモデルを提示していると言えます。

個々人の自立性と主体性の発揮という点を重視する彼にとっては、20世紀も終るにしたがって視点の力点が、巨大組織のあり方から、知識労働者を中心とした機能の結びつきという点に資本主義の基本的特徴を見出すというように変化することは必然だったのでしょう。

ただ、たとえ自律的な知識労働者が増えようと、組織そのものがなくなる訳ではありません。個々の労働者を結ぶ媒介としての・場としての組織は残り続けるわけですし、その場のあり方を考える上では、「分権制」という理念は今でも重要なのだと思いますし、これまでも多くの学者が取り組んできた話題なのだと思います。

こうしたドラッカーのトピックを取り上げる上では、何度も言うように、あくまで彼は政治学者として取り組んだのであって、生産性を上げる方法を第一に考えたのではないということは留意されるべきだと思います。もちろんそのことは、生産性を上げることを軽視してよい理由にはなりません。ただ、単に物質的な条件を改善することだけを考えるのであれば、ドラッカーから見れば、それはかつての社会主義と同じレベルに堕ちてしまうということです。

また同時に弱肉強食・優勝劣敗を市場原理の必然と考えることも、ドラッカーの真意とは遠くかけ離れています。ドラッカーが市場原理に賛同する理由の一つは、それが個々のパフォーマンスを客観的に測定する基準となりえるため、恣意による昇進などを排除し、それだけ労働者間の関係を対等にできると考えたからでした。つまり、経済学的ではなく、政治学的動機から、彼は市場原理に同意しました。

それゆえ、ドラッカーの意図は、優秀な人だけではなく、人類全てが幸福に生きる条件の探求にあります。市場原理は一つの可能性ですが、それは市場原理から排除されたものを見捨てることをよしとするわけではありません。元々の探求の意図は、全ての人が幸福に生きる条件の探求であり、その条件の一つが労働に個の尊厳と市民性を取りもどすことなのであれば、その活動に他者の救済という社会福祉的活動が入る余地は十二分にあるからです。

私たちが今ドラッカーを読む際には、そのような彼の政治学的意図を前提にすべきなのだと思います。



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