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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

加害の忘却と心的外傷 『関与と観察』中井久夫(著) 2

2006年08月15日 | Book

「加害の忘却と心的外傷 『関与と観察』中井久夫(著) 1」からの続き)

加害による心的外傷

この本で他に中井さんが戦争について語ることの一つが、戦争における関与者の心的外傷の問題。とりわけ中井さんは、加害者の心的外傷にフォーカスします。

中井さんが調べたところでは、人間は本来は(案外)人を殺すことに躊躇する生き物だそうです。つまり、一見激しい戦闘が行われているようでも、最初は多くの兵士は敵を狙って発砲できないみたいです。80%から85%の兵士は、自分の命が危ないときでも、敵を狙って発砲していないということが明らかにされているそうです(4頁)。いくら戦争であろうと、どこかで人間に備わる自制心がみたいなものが働くのでしょうか。

もっとも戦後これに気づいたアメリカは、頭の柔らかい10代の兵士に心理的コントロールで洗脳することで、人間を銃で撃つことへの抵抗心をある程度取り除いたそうです。本当に「殺人マシーン」を作ったんですね。これらの兵士がヴェトナム戦争に参加したそうですが、彼らは母国に戻っても市民生活に適応できなくなってしまったそうです(5頁)。それが原因なのか、洗脳という方法はアメリカ軍は以後放棄したそうです。

このように人間はそのままで(案外?)戦闘行為というものには耐えられない生き物で、「戦争のプロと言われるベテラン下士官でも、四、五十日も戦い続けたら、「もうどうなってもいい」と言って武器を投げ捨てて、むざむざ敵に撃たれるようになるということが起こる」そうです(7頁)。

こう言われると、戦争というのは、「政治の延長」にはなりえないのだと感じさせられます。多くの人間は人を無抵抗に殺すということができず、経験をつんでも戦場を放棄する心理に追い込まれるのなら、計画的な戦争というものは本来無理なのかもしれません。

世界で圧倒的な武力をもつアメリカですら、ヴェトナムもイラクも完全制圧できませんでした。このことは、核兵器を使わない限りは、戦争を成功させるということは本来無理だということなのかもしれません。

日本にしてもドイツにしても降伏させることができたのは、これらの国が国の崩壊よりも敗北を選ぶ余裕をもっていたからではないでしょうか。しかし、敗北するぐらいなら国の崩壊も辞さない相手には、戦争で勝つことはできません。

また中井さんは、戦闘員・加害者としての人間は敵と向き合ったときは撃つのに躊躇してしまうそうですが、だからといってそのような抑制がつねに続くわけではなく、虐殺の種もつねに宿しているそうです。

「米軍のデータに従えば、敵と味方が対峙し合った状況での死者は非常に少ないそうです。全員が確実に相手を殺す手段を行使していたら、戦闘はもっと早く決着がつくのだけれども、それよりずっと時間がかかるそうです。しかしあるところで一方が逃げ出す。ところが背中を見せると途端に殺しやすくなるのだそうで、大量の虐殺は逃げる軍隊に対して起こります」(11頁)。

絶対に勝てるという場面では、一気に人間の残虐性が顔を出すということですね。その意味で、戦争は、やられた者と同じくらい、勝った方にも大きな傷を心に残すのではないかと思います。それまで耐えていたものが、一度噴出すと全部噴出してしまうように。

「ある時、奇妙な状態が起こります。勝ったと思ったときだそうです。それは非常に危ない状態です。勝ったと思った時には、一種の空白状態、善悪感覚のノーマンズランドがうまれるようです。そこに略奪が起こり、虐殺が起こり、レイプが起こる」(11頁)。

このような掠奪行為は、連合国がドイツに戦勝したときにも起こったことであり、ドイツの数十万の兵士が殺され、またシベリア収容所に送られました。またソ連に占領されたベルリンでは、ベルリンの女性市民の半数がソ連兵士に強姦されたそうです。

このような、おそらく人間一般に見られる虐殺への性向に加えて、中井さんは日本人の特性の中にも虐殺の種を見ます。彼によれば、独裁的な主犯の命じるままに信じられない大量殺人を実行したという容疑者の心理テストには、平均的な日本人の心理傾向と通ずるものがあるということです。すなわちそれは、「自罰的でも他罰的でもなく、無罰的とでもいうべきか、すべてを不可避的な流れと観念し規律と習慣に従って耐え忍びつつ時間の経つのを待つ」という傾向です(23頁)。

このテストに対応するように、日本人にはハイジャックされた航空機内でも落ち着きをみせる傾向があり、また太平洋戦争開始時にも、中井さんの周囲の大人たちは「来るべきものが来た」と言い合い、「避けられないと強く推定されていたものがやはり到来した」という宿命論的な態度を見せたそうです。中井さんは、上の大量殺人の容疑者の性向を自分も共有すると語っています。

上で述べたNHKの番組でも指摘されていたように、日本軍は上海進出の際に兵士だけでなく一般市民の虐殺を行ったそうです。

これは、番組でも、また中井さんも指摘していることですが、短期で制圧できるという甘い見通しとは異なり、復員が適わず、次々に現地での侵攻の命令が下るにつれて、兵士にイライラが募ったことが原因の一つのようです。

中井さんの知り合いであろうある詩人の子息は、兵士として残虐な場面に無感覚になるために、訓練して中国兵士を銃剣で刺殺させられた体験があり、彼は帰国後も毎晩血なまぐさい悪夢にうなされていたそうです。

中井さんは日本の日中侵略には、中国の民だけでなく、日本の兵士自体にも大きな心的外傷をもたらしたと見ています。

「日本人は「弱い者いじめ」となるのを非常に恥とします。中国との戦争はフェアではないという感覚が当時の日本には底流していたと私は思います。対米開戦には奇妙な開放感がありました」。

「中国戦線の軍国歌謡は、反戦歌と間違われたほど暗くマゾヒスティックです。たとえば、「どこまで続くのか、ぬかるみよ、二日三晩食事をしていない。雨がヘルメットから滴り落ちる」「父よ、あなたは強靭であった。鉄兜の燃えるような炎天下に泥水を飲み、草を食物とし、敵兵の死体と一緒に横になり、三日も眠らずにいたそうですね」というもので兵站線の弱さは事実でしょうが、自分も犠牲者だと訴えて、苦行による免罪願望が潜んでいるかのようです」

「また戦後五〇年間、「戦友会」がさかんに催されましたが、中国戦線参加兵士の戦友会は、しばしば口論、喧嘩、乱闘に終ったそうです。この集団の葛藤と外傷の深さを示唆する事態です。これに反して太平洋戦争従軍兵士の「戦友会」は一般に和やかに終りました」(28-32頁)。

このアジアに対する加害による外傷は、60年を経って、また最近になって噴出しています。薄皮一枚の下に抑えていた罪悪感を、容赦なく隣国はつつきます。それにどれだけ諸隣国の政治的意図があろうと、日本がこの問題に対して真剣に向き合ってこなかったツケがまた巡ってきています。

現在の首相の靖国参拝は、それを「心の問題」と言っている点で、その参拝が日本の加害の事実に向き合っていないことを示しているのではないかと思います。首相が誠実か誠実でないかは、厳密には分かりません。ただ、相手を巻き混んだ戦争という行為をめぐる追悼という行為において、その行為にアジア諸国の人への視点がなく、それを「一個人の心の問題」とすることは、戦争に参加し加害という外傷の記憶を背負った日本の兵士を慰めることにはならないのではないかと思います。

中井さんは次のように述べています。

「いずれによせ靖国神社は軍人のみを祭っています。鎮魂としても不十分であると思います。また、通常の春秋の祭ではなく、敗戦の日の八月十五日に参拝することは復讐を誓っていると誤解されかねません。これに対して、戦後に作られた原爆犠牲者、沖縄戦犠牲者の碑には、一般市民はもちろん米軍の死者も祭られています。胸を張って若い人たちに示すことができるのはこちらでしょう」(37頁)。

実際に加害を行った兵士を慰める手段という点でも、靖国参拝は、アジア諸国への配慮がなく、個人的な「心の問題」とされていることによって、亡くなった兵士たち自身が感じているアジア諸国への罪悪感を慰めるものにはなっていないように思います。

むしろ、過去の日本の兵士が救われるとしたら、それは何らかの形によるアジア諸国との関わりを積極的にもつ行為を通してのように思います。


加害の忘却と心的外傷 『関与と観察』中井久夫(著) 1

2006年08月15日 | Book
精神科医の中井久夫さんの『関与と観察』を読みました。

いろいろな場所で発表したいろいろなテーマの文章を集めたもの。その中で戦争に関するものが割合多く収められています。

中井さん自身は1934年生まれで戦場に赴いた経験はありませんが、体が弱い少年だったがゆえに、軍国主義体制下での軍人とその下部少年団による圧力など、つらい経験があったそうです。

戦争を忘れるとき、戦争をおこなう

その中井さんがイラク戦争という現代世界の現実を見て述べることの一つが、日中・太平洋戦争時の日本には日露戦争を経験したリーダーがおらず、それゆえ無計画な大陸進出を行い、アメリカとの開戦に踏み切った経緯があること。

ある政治学者も述べていたのですが、一般に軍人統治の政府よりも、文人統治の国の方が、無謀な戦争に踏み切るそうです。自身が戦場に赴いた経験がなく、また戦争の怖さも知らないために起こる事態なのでしょう(「ヒトラーもムッソリーニも軍人ではありません。イラク戦争準備中の統合参謀本部長シンセキ大将(日系)は開戦に反対して罷免されています」(9頁))。

ブッシュ父大統領は太平戦争で戦場に赴いた経験があるそうですが、彼は湾岸戦争の実態を知りアメリカの撤退を決断したそうです(11頁)。

あれから10年以上が経ち、世界も、そして日本も、政治のリーダーのほとんどすべては戦場を経験していません。また自国の民の大部分が命を失い、自国の領土が他国の軍服を着た兵士に制圧されることの屈辱を知っているリーダーも少ないでしょう。

そういう状況では、安易に戦争に突入する危険がつねに付きまといます。

ある日本の政治家が、「日本のハト派と言われる人は、自分が“ハト派”であることに自己満足を覚えている人」と言っていました。私は、戦争を知らない世代の“ハト派”に関してはそれは当たっているのではないかと思いますが、それは“タカ派”も同じです。

私たちはいまや誰もがみな戦争を知らないお坊ちゃん・お嬢ちゃんであり、その事実から逃れることはできません。中井さんとは違い、私たちは平和の尊さも戦争の恐ろしさもみんな知りません。

そうであれば、まずその事実を認識し、自分たちは平和も戦争も、どれだけ口角泡を飛ばして激論しようが、分かりえないことを自覚した方がいいのではないでしょうか。自分たちが徹底的に未熟であると知ること。これは若い人だけでなく、60代やそれ以降の世代の人にもあてはまる場合があるかもしれません。

平和の尊さも戦争の恐ろしさも知らないこと、それゆえに、話し合わなければならないときには、戦争と外交については慎重の上に慎重に語った方がいいのでしょう。

中井さんが繰り返し指摘することの一つが、戦争は簡単であり、平和は退屈で地味であること。

「戦争は明快で単純で期限があります。そして、一見プラスがありそうに思います。因果関係が明快単純です。そして、ヒーローが生まれます。俗語で言えば、格好いいのです。ただし、これは全部見せかけであり、一ヶ月もたてばメッキがはがれるのですけれども、戦争を知らない世代には、戦争という観念の中からその悲惨さが遠のく。戦時の戦争批判はブーイングを招きます。これに対して平和は、失点を少なくするという減点主義の地味な努力です。それに果てしない努力で期限がありません。そして、今打った手がいつ実るかは分からないのです。因果関係もはっきりしない。一手で新局面が開けるというのは、めったにない。だからしばしば批判されやすい。時には、その功績は本人がとうに亡くなって初めてプラスに評価されることも少なくありません。そして暴力的なものに脅かされます。脅かされながら、そしてこちらからは暴力は使えないという状況で、説得の力によって何とかまとめていく。つまり平和維持の努力はダサイのです。見栄えがしないのです。果てしなく、きりがなくつづけていかなければならないのです」(10頁)。

この平和の退屈さと地味さに多くの人は耐えられないがゆえに、好戦的な人は戦争に訴えるし、平和を訴える人ですら大声を張り上げて戦争を引き合いに出して自説の正当性をメガフォンで訴えます。

しかし、外交の現実をみれば、平和を達成する上で必要なのは、情緒的な訴え(だけ)ではなく、策略と裏交渉の積み重ねなのでしょう。ドイツのビスマルクが天才と言われたのは、植民地獲得競争と領土の拡張を競い合う当時の欧州において、決して他国に恨みを買わないという点を外交政策の根本的方針に置いていた点だそうです(普仏戦争でのドイツの勝利の際になった国境地帯のアルザス・ロレーヌのドイツによる割譲要求に関してはビスマルクは積極的ではなかったそうです。「アルザスの大部分とロレーヌの一部の併合はモルトケ参謀総長、ローン陸相ら軍部の主張に押し切られて成立した。それでも、ビスマルクは、兵をヴェルサイユに留めてパリにいれず、兵士による略奪、暴行、殺人が起こらないようにした。またパリ・コミューンの弾圧はドイツの命令に従うしかないフランス軍に委ねて、怨みを買うのを避けた。それでも、フランスが巨額の賠償を期限以前に支払ったのをみて愕然としたビスマルクはフランスの植民地獲得を援助するなどの宥和に努めた。彼の時代のドイツ軍艦は主砲が世界の標準より小口径で航海距離も短く作られていた」(91頁)。

ビスマルクについては、後世ではその人格への批判などがありますし、彼は“平和主義者”ではないと思います。むしろ徹底した自国中心主義だとも言えますが、信念や虚栄ではなく、自国の保護のために実践的に平和を維持するよう立ち回るという政策は、結果的に戦争を招来しないという点で、見直されるべきなのかもしれません。

中井さんによれば、戦争を開始した当初は、一ヶ月ほどは日本国民は軽い興奮状態にあったそうです。これは1926年生まれの吉本隆明さんも述べていることですが、当時の日本は「奇妙な明るい状態」だったそうです。また精神科医の神田橋穣治さんは、戦争時の日本国民を、エネルギー・注意がすべて頭に言ってしまい、身体の快・不快の感覚を置き忘れたような状態だったと考えられると言う意味のことを述べています。

戦争というのは、開始当初は祝祭的な雰囲気に包まれ、また英雄が生まれます。

しかしそれは長くは続かず、そのうち国民の間にも兵士の間にも「早く終らないかな」という想いが頭を支配するようになります。

昨日のNHKスペシャル 「日中戦争 ~なぜ戦争は拡大したのか~」8月16日(水)深夜【木曜午前】1時10分再放送)でも取り上げられていましたが、最初はすぐに制圧できると思って兵士は出征しましたが(26頁)、日本の思惑とは違う中国の粘り強い抵抗にあい、日本の兵士は次第にイライラを募らせていきました。

この日本の中国進出も、日露戦争から40年が経ち、戦争を知らない世代が計画した無謀な戦争でした。

この日本の兵士のイライラが、多くの中国の人への殺戮行為となって現れます。

“国民性”というものは、永遠普遍という意味でのそれは存在しないでしょうが、歴史的に規定され、時代によって変化するという条件をつければ、存在するかもしれません。中井さんは、ある中国の婦人が戦後に「日本人の顔はいい顔になった。戦争のときの日本人の顔は険しかった」と言われたそうです。

当時の日本は経済的に見れば「絹の単品輸出国であり、多額の戦費のために、タバコ、塩を専売にし、鉄道を国有にしてこの三つをゴールドマン・サックス社などへの抵当をにおいた債務国」(83頁)だったのですが、その現状を見ずに無謀な大陸侵略を行いました。

日本は日露戦争において戦勝国にもかかわらず、実質的には戦利品も賠償金も得ることがありませんでした。それは日本の国力を反映していたのですが、しかし戦争での勝利という成果から、自身の経済力のなさを省みず、軍事大国への途を歩もうとします(まるFIFAランキングを素朴に信じてしまったように?)。中井さんは次のように指摘します。

「絹という一次産品の輸出に外貨獲得を依存する貧しい国であって1903年にも飢饉があった日本が、国家予算の三分の一を費やして世界第三の大海軍を建設します。・・・第一次大戦には連合国の一員でほとんど名目的な参加であったのに、講和条約とその後の軍縮条約において米英に次ぐ列強として扱われました。実際には国力以上の評価であったにもかかわらず、軍縮における英米との僅かな不平等は失業軍人を中心とし怨恨を新たにし、第二次大戦の遠因となります」(25頁)。

(そう言えば、オシムさんが日本のサッカーについて「できることとやろうとすることにギャップがありすぎる」「楽観するから失望するのです」と厳しく批判していましたね。サッカー・ジャーナリストも日中・太平洋戦争の日本と今回のワールドカップに関して、現状を見ずに過大な期待をするという点で同じだったと述べています。

ただジーコ・ジャパンに関しては、論理的な分析力でサッカーファンに知られるジャーナリストの多くが、W杯前から苦戦を予想していたし、その予想の素となるジーコ・ジャパンの弱点についても語っていました。大企業メディアは狂騒的な報道をしていましたが、多くのサッカーファンは楽観していなかったと思います。

ただ、頭では予想できても、現実に決定的な敗北を突きつけられて、みんなショックは受けたとは思います)

こうした現実の目測把握力の欠如は、上滑りした強気なタカ派的発言と結びつきやすいのだと思います。私たちはどこかで、日本には自国の力で他国を制圧できる軍事力もなければ(兵器の数ではない)、複雑な外交を慎重に切り抜けるほど計算高い頭脳も少ないことをどこかで分かっているのだと思います。

怖いのは、分かってるのに、その事実から目を背け、カリスマ的なリーダーが現れれば、状況が一変するのではないかという期待を抱くことであり、その危険性はたしかに今の日本にあります。連続してある特定の傾向をもった政治家群が一身に期待を集めてしまうという事態は、じつはとても不安定な状況であることを示しています。

一人の政治家の力だけで状況がドラスティックに変化するということを期待すること自体が、社会全体が自分のいる状況を冷静に見ようとする姿勢を失っていることを表しています。

またそういう期待を受けた政治家は、自分に求められているのは、何か大きな事業・変革であると思い込み、後世に受け継がれていくことで始めて日の目を見る地味な作業には着手したがらないものかもしれません。こういう時には、安易に好戦的な態度を表明する政治家が出る危険性を私たちは予想しなければならないのでしょう。中井さんは、「戦争をさせる指導者の心理」について次のように述べています。

「冷静に考えたならば、勝てる見込みのない戦争、たとえば太平洋戦争という、対米戦争の場合に、実際に閣議あるいは枢密院の議論で「一か八か」とか、「ジリ貧よりもドカ貧を選ぶ」という表現がなされています。「やってみなきゃわからん」とか「死中に活を求める」というのは、追いつめられた者の心理です。せっぱつまって行う賭博の心理を、われわれはもっと知らなければならないでしょう。自己破壊衝動と願望思考の支配する世界ですね。戦争を実際に味わった世代は戦争に対して慎重ですけれども、味わったことのない世代にとっては、低いレベルでの統一感を一時は与えてくれる。戦争の準備をするほうが、苦心して交渉するよりも、指導層も楽だし、民衆にもわかりやすいのです」(8頁)。

「構造改革」と同時に、アジアの隣国に対する挑発的な言動が日本の政治家に目立ってきたことは偶然ではないと思います。「構造改革」、実質的には不良債権処理・道路公団民営化・郵政民営化といった政策も、見通しを立てないまま「構造」という掛け声を私たちにアピールすることで、社会の大変革という祝祭的な雰囲気を演出しました。それはちょうど一年前には、自党の議員を敗北に追いやるという、ローマの円形闘技場での決闘の様相を見せ、メディアは狂騒し、私たちは政治の場面に単純な善悪の図式がはめ込まれ、時の首相を英雄にしました。

不良債権処理による中小企業の苦境や、郵政民営化による預貯金口座・簡易保険への市場原理の介入など、地道な作業を要する問題を考えることなく、私たちは改革を支持し、多くの政治家が突然改革派へと変貌し、大きな掛け声を出すようになりました。

こうした傾向と、タカ派的に中・韓・北朝鮮を挑発する政治家が増加したことは関連しているのだと思います。人々の攻撃神・感情を刺激する言動を繰り出すことは、地道な政策運営よりも、簡単に人々の注意を集めるからです。


「加害の忘却と心的外傷 『関与と観察』中井久夫(著) 2」に続く)