joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

小野が外れる

2006年08月05日 | スポーツ
小野は落選「まだ飢えてない」

「 4日発表されたオシム・ジャパン13人の中に、98年フランス大会からW杯3大会連続出場した浦和MF小野伸二(26)の名前はなかった。13歳でU- 16日本代表に初選出されて以来、常に各年代の代表で中心選手役を担い、2010年南アフリカ大会で円熟期を迎えるはずの天才MFが外れた」

小野が入らなかったのも意外だけど(サッカーをウォッチしている人にはそうではないのかもしれないが)、そのことが記者会見や速報で話題にならないのも意外だ。このこと自体が小野のポジションを微妙に表しているのかもしれない。

ワールドカップでアルゼンチンの司令塔リケルメを見ていると、小野も本来こういう使われ方がいいのかもしれないと思いました。要するに、中盤で自由にやらせ、ある程度組織的な動きを免除するということ。

もっともそうするためには、小野(リケルメ)の守備をカバーするために他の選手が必死に走り回る必要があるのですが。

アルゼンチンではそういう余裕があっても、日本にはそんな古典的な10番を許容するほどの余裕はないということでしょうか。

これからのオシム・ジャパンで楽しみなのは、ジーコ・ジャパンのうちどれほどの選手が代表に残っていくのかということ。

サッカーの素人の僕にとっては、中田や中村はともかく、ジーコ・ジャパンの選手が他の選手よりどれくらいいい選手なのかはよく分からない部分もあった。しかし監督が変わっても選ばれ続けるならば、やはりその選手は本当にいい選手なのだ、と推測できます。

トルシエで常連だった選手が、年齢的にはピークにあるにもかかわらず、ジーコになってさっぱり選ばれなくなったということもあります。それを見ていて、日本の選手というのは、皆横一線なんだな、と思わされました。

サントスは残っていますが、楢崎は外れて、川口は残っています。このあたりも興味深いです。


涼風

やさしいニュース

2006年08月05日 | テレビ


テレビが下品というのは、おそらく今に始まったことじゃない。昔は野球拳を放送していたらしいし。

ただ、ワイドショーだけじゃなく、夕方のニュースでの放送ですら、ナレーターの声がどうしようもなく下品に聴こえます。

子供が死んだり陰惨な事件を報道しているのに、それを説明するナレーションがひたすら煽るような下品な声で、悲劇に見舞われた人たちの心情を逆撫でするようです。

またアナウンサーたちも一応真面目な顔をして悲劇を報道するのですが、その顔がインスタントに作られた真面目さであることが伝わってきて、悲劇にあった人たちの気持ちに心情的に共感しているようにはとても見えません。テレビの(下手な)演技者としてわざとらしく真面目な顔をしているだけのように感じます。

こういう傾向は夕方のニュースや夜のニュースにも顕著になっています。

こういう傾向が今になって初めて起こったことなのか、それとも昔からなのかは分かりません。単に僕の感受性が変化しただけかもしれないからです。

ただ、どうしても、ニュース番組はニュースの内容について真剣に考えてないように感じます。


と、こう書いて、ではどういう雰囲気を僕はニュースに期待しているのだろう?

やはり冷静で客観的な報道。今のニュースは、とても感情的です。何が善で何が悪かを分かりやすい図式で画面に作り出し、それに煽るようなコメントをつけて、“糾弾”します。

そのような感情的な報道を見ていて不快に感じるのは、そこに“被害者”“弱者”に対する本物の共感はなく、善悪の感情を煽ることで視聴者の気を惹こうとする作用だけを感じるからです。

何が善で何が悪かを安易に決め付けるとき、そこに本物の優しさや善意はなく、“罪人”を罰そうという残忍さを感じてしまいます。

やはり、そういう残酷さを感じて、僕はニュース番組に不快さを感じるのでしょう。

逆に一つに事件に対する多面的な視点や詳細な情報をつけるほど、人は残忍な感情で他人を罰することができなくなります。すると、意図的に作り出した善意ではなく、自然でニュートラルな優しさみたいなものが伝える側にも見るものにも生まれるものだと思います。

そういう意味では、やはり僕は人の優しさに接したいのでしょう。


涼風