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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『「ひきこもり」救出マニュアル』 斎藤環(著)

2006年08月28日 | Book
先日、精神科医の斎藤環さんの『「ひきこもり」救出マニュアル』を部分的にパラパラ読んでいました。500ページ以上もある分厚い本なので、半分近くまで読んだあとは、興味が惹かれる部分をページをめくりながら目を通しました。

斎藤さんの本はベストセラー『社会的ひきこもり―終わらない思春期』についで二冊目。『社会的ひきこもり』の内容は忘れていたのですが、今回上記の本をパラパラ読んで、なんとなく思い出したような気もする。

『マニュアル』では、「ひきこもり」の人たちについて、具体的にどう対応すればいいかを、まさにマニュアルとして対策を項目別に書いてあります。

と言っても、印象としては、様々な角度からの質問に対して、斎藤さんの一つの「ひきこもり」観を繰り返し繰り返し述べると言うものだと思います。質問する側はいろいろな質問を思いついても、斎藤さん自身は「ひきこもり」について一定の考えがあるのであって、その同じ考えを何度も粘り強く述べるというスタイルですね。

著者が強調することの一つは、「ひきこもり」の人に対して「おまえたちは子供だ」とか「世の中の仕組みが分かっていない」とか「認識が甘い」とか、道徳的な正論を述べて説教をしても全く意味がないということ。というのは、「ひきこもり」の人たち自身が、そんな世間的な道徳観を人並み以上に身につけていて、自分たち自身がつねに内面で自分を攻撃しているからです。

言われなくても分かっていることをあらためて周りの人に言われても、それは「ひきこもり」の人たちが行動するきっかけにはなりえないし、彼らの自己攻撃を強めて、彼らの内面を破壊するだけになります。

では、なぜ彼らが動けないのかということについては、この本ではその理由は精緻に述べられていないように思います。ただ指摘されることは、「ひきこもり」には男性が多いけれど、それは日本の社会では男の子に親も大きな期待をかけて、学校教育と職業世界がつながっているシステムの中で優秀な成績を修めることを期待するのに対し、その期待に応えたいという欲求と、しかし自分にはできないと言う敗北感とで、もう動けなくなっているということがあること。あくまで一つのパターンですが、両親の価値観との葛藤というのは、おそらくすべての「ひきこもり」の人に共通する“問題”なのだと思います。親の価値観・期待に本来は応えたかったという想いと、親に価値観を押し付けられたことへの反発という想いの中で引き裂かれ、どうにも動けなくなったというのは、一つの基本的な特徴なのではないかと私は予想しています。

期待をかけられてきた中で、人生を「期待に応えて成功する」か「失敗する」かという二者択一でしか見ることができず、自分の丈に合ったかたちで人生を構築するきっかけをなかなか掴めないということ。概ね、斎藤さんの見方はこういうものではないかと、著者がはっきりこう述べているわけではありませんが、私は読み取っています。

その中で、ではどうすれば「ひきこもり」の人たちが「脱出」できるのかも、この本で述べられているわけではありません。おそらく、1000人以上の患者に対応してきた中で、“こうすれば治ります”という方法はないと斎藤さんは感じたのではないかと思います。

ただ、その中でも、「ひきこもり」の人たちが変化する状況は概ね指摘できるということなのでしょう。

斎藤さんが強調することの一つは、周りができることは、当事者が安心して引きこもれる環境を作ることが大事であるということ。元々極端に親の期待を内面化しているがゆえに、柔軟に動くことが難しくなっているのですから、これ以上彼らにプレッシャーをかけることは百害あって一利なしなわけです。状況を変化させる特効薬はないでしょうけれど、とにかく彼らのプレッシャーをなくす環境づくりを心がけること。

この過程では、「ひきこもり」の周りの人も、また治療者も、自分たちの価値観を変更させられるプレッシャーを感じると思います。どれだけ環境をととのえて「ひきこもり」の人たちを“治そう”とがんばっても、そういう思いが強ければ、感受性が過敏になっている当事者たちは、「俺を変えようとしているな」と察知して、余計に維持になって変化を拒むことが多いでしょう。かと言って親御さんや周りの人にとっては、“このままでは困る”という焦燥感が強まると思います。

その中ではどうしても、社会に出て就労して経済的に自立するという“当たり前”と思われる価値観自体を根本的に見直すプレッシャーも受けるのかもしれません。

実際、斎藤さんが繰り返し言うことの一つが、“治療”のゴールは、就労という形態を取ることではなく、複数の他人と親密な関係を取ることだということです。もちろん就労自体が否定されているのではなく、重要なのは就労や他の形態を通じて、他者と交流する回路を「ひきこもり」の人たちがもてるようになるということです。

この他者との交流、あるいは社会参加ということ自体に、また一つのイデオロギー性を認めて批判することは簡単です。ただ斎藤さん自身は治療者として、もし「ひきこもり」の人たちが自分の内面に不健康なものを感じ、それを変化させたいと願っているとき、その契機となるのが他者との交流であると、臨床を通じて体得したのではないかと思います。

「ひきこもり」の人たちは本当に病気なのか?病気だとすれば、そこにはどういう“病理”があるのか?それが“治る”ということはどういうことなのか?この本はそういう疑問に答えてくれる本ではありませんが、「ひきこもり」という一つの現象を通じて世間の正論・道徳を正当化する視点を与えてくれる本だと思います。