昨年『音楽の世界』に拙文を掲載して頂きました。
いつの間にか、全文掲載可期となっておりましたので、こちらに掲載いたします。
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音とは波であり、振動です。人は、歌を歌うのに声のみを使うのではなく、音を聞くのにも、耳を使って聞く以外に様々な聴き方をします。
テルミンは、世界で一番古い電子楽器です。発明されたのは、ロシア革命直後の1920年でした。「音を奏でる」と言えば、物理的に弦や膜を振動させて、その振動を音として伝えるしかなかった時代。そこに登場した、電子回路によって作り出した電気信号の振動を音に変換する仕組み。電気というテクノロジーの生んだ新しい音。それは、物理的にない音は音曲の中には使えない事に、作曲家が不自由を感じ始めた時代でもありました。
しかも、その演奏方法は、楽器には触らず、何もない空間で手を動かし音を出す、という特異なスタイルでした。あまりにも不可思議なテルミンの演奏は、アインシュタインに「空間から自由にあふれ出る調べ」と言わせ、発明当初は、しばしばエーテル波(Etherwave)の音楽とも称されました。実際、演奏者が行うのは、楽器の中の電子回路にある可変コンデンサーの値を変化させる為に、一方の極を手の動きでコントロールするという操作であり、それは、自分も含めた外界すべて、空間全体の助けなしには行い得ない作業なのです。この仮定媒質の名は、現在、アメリカのモーグ社が販売している流通版のテルミンの商品名として、その名残を留めています(Etherwave Theremin)
今年、2020年は、テルミンが発明されてから100年目にあたります。この節目に、テルミンの歴史を改めて紐解いてみたいと思います。
前述の様に、テルミンは、1920年、ペトログラード物理工科大学で働いていたテルミン博士によって発明されました。テクノロジーを最初に芸術に持ち込んだ男、テルミン博士、時に24歳。まだコンピューターすらない時代に作られたその楽器は、発明者の名前をとって「テルミン」あるいは「テルミンの声」と呼ばれました。ソ連の最新技術から誕生した電子音楽、という考えはレーニンを始めとするソ連の首脳陣を喜ばせ、国の後押しでテルミン博士はロシア国内、そしてヨーロッパ各地への啓蒙活動を行います。そして1927年渡米。RCA社から大々的にテルミンを販売し、精力的に演奏活動を行います。演奏会には多くの作曲家が顔を連ね、チャップリンは自分のテルミンを発注するまでの入れ込みようでした。
ショスタコーヴィチ、マルティヌー、エドガー・ヴァレーズ、パーシー・グレインジャー等、初期にはテルミンの為の曲も作られましたが、演奏があまりにもデリケートで困難であった事により、一般的な普及には至らず、RCA社から販売されたテルミンも500台で製造が中止となりました。同時代に作られた、ほぼ同じ原理の電子楽器オンドマルトノが以前からある楽器の仲間入りを果たしたのに対し、テルミンは、古典的な作曲家の楽器としての興味の対象から外れ、そして構造がエレガントにシンプルすぎた為に音色が単調であった事で、テルミンを嚆矢とする筈だった電子音楽の作曲家の興味の対象からも、微妙に外れていったのです。
電子音楽には、音楽と、音の実験室、という二つの側面があります。テルミンは、そのどちらの世界の一員ともなれなかった事で、境界にとどまり続ける事となりました。時には、未来を先取りする行為のアイコンとして、時には、不可思議な世界を想起させるアイテムとして、また、時に、ロックミュージシャンのステージパフォーマンス、あるいは、前衛的な表現者の選ぶツールとしても機能していく事となったのです。テルミンが日本で初めてコンサートホールに登場したのも前衛アーティストの舞台でした。1961年、のちにフルクサスの一員として活躍する事になる塩見充枝子が、一柳慧の『IBM』という作品の中でテルミンを使用しています。
五線に表せない音によって作られる浮遊感のある音は、映画の効果音としても活用されました。ヒッチコックの『白い恐怖』(1945)、ビリー・ワイルダーの『失われた週末』(1945)では不安感を盛り上げるように使われ、以後、似た様な用途で度々使われました。
その後、モーグ博士の新作テルミンSeries91(1991)の発売と、テルミン博士のドキュメンタリ映画の公開(1993)を契機として、テルミンは再び楽器として歴史の表舞台に現れてきます。ジョン・ノイマイヤーのバレエ『人魚姫』(2005)においては、テルミンが印象的な役割を果たし、未来的ドラマ作品の中でも、テルミンは使われ続けています。『のだめ・カンタービレ』にも登場し、オノ・ヨーコが用いるなど、商業音楽においても、恐らく知らずに耳にしているテルミンは想像以上に沢山あります。
一方、テルミンを古典的な楽器と同じ様に扱おうとする努力に対して、かつて警鐘を鳴らしたのは、ジョン・ケージでした(1937) 電気楽器も参入して音楽を生み出していく、という事が予想される近い将来では、音楽を書くための技法は、今とは違う、新しい方法が発見されるだろう、と主張したケージは、後年、テルプシトン(演奏者の身体全体の動きで音楽を操る)を使った曲『Variations V』を作曲しています(1966) 本来は、新しい技術は新しい文化を生むべきものであって、古典的な文化の枠組に無理に納める必要はありません。既存の枠からはみ出しても、尚且つ、芸術と呼ばれる事に耐え得る新しい表現を生む語法を見いだそうとする試みは、現代音楽、そして、インプロの現場で活発です。
非接触で演奏するというインターフェイス、電子楽器でありながら、あくまでも機械による制御を拒否し、演奏者の動きによって音を紡ぎ出さねばならないテルミンは、未来的であると同時に原初的です。シンセサイザーとは違い、テルミンにおいては、頭の中の音の再現は、はなはだ不完全な形でしか実現されず、演奏者の個性が前面に現れます。リディア・カヴィナ、パメリア・カースティン、Nori Ubukata、赤城忠治、llamano、等、テルミン奏者が、自ら演奏する曲として作曲する事が多いのも頷かれます。最近では、テルミン博士の曾孫にあたるピョートルによる「ひろしま」をテーマにした曲の中で、テルミンの長いポルタメントとループマシンが効果的に使用されており、これは、テルミン奏者ならではの発想から生まれた試みでした。
一方、テルミンを演奏しない現代作曲家達によっても、テルミンの個性を生かした、いかにもテルミンらしい楽曲は、作られ続けており、その場合は、作曲家と演奏家との共同作業が大事な工程となっています。筆者も多くの作曲家の先生方にお世話になりました。ここでは、一番最初にテルミンの為の曲を作ってくださった故今井重幸先生のお名前だけ挙げさせていただきます。
人の演奏しないテルミンの出す音は、ただの電子音です。そのテルミンに人の手が加わる事により、音程・音量・音色を制御し、音に命を吹き込んでいきます。音量を制御する、と一口に言いますが、これは、単なるボリュームのコントロールではありません。音の立ちあがりから、消え際まで、全て、人間の意思と動きでコントロールする、という事です。実際は、そんな細かいニュアンスまで論理的に計算した上でコントロールしている訳ではありませんが、演奏者による身体の動きの違いは、それぞれが、自分の頭の中にしか存在しない音を無意識に再現しようと試みた涙ぐましい試行錯誤の結果なのです。
その舞う様な演奏スタイルから、様々なパフォーマンスも生まれました。まさに舞う様に演奏し、しかも再現性のある音楽として成立させる、やの雪。ARMEN RAの様に視覚を強く意識した演奏家もいれば、舞踏家とのコラボレーションを試みる奏者もいます。
わたし達が、観客に手渡そうとするものは「音楽」と名付けられているものだけではない筈です。近代によって細分化される以前は、「音楽」は、純粋に音だけのものと歌舞まで含めたものとの境界が曖昧でした。電子楽器黎明期の発明品、この原初的なテルミンは、楽器として演奏する以外に、思いがけない可能性を秘めた発明であるのかもしれず、様々な可能性を試す魅惑的な挑戦は、まだまだ始まったばかりなのかもしれない、とも思うのです。
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季刊「音楽の世界」2020年夏号(発行:日本音楽舞踊会議)より