「シェイクスピアの名作「十二夜」を蜷川幸雄の演出で歌舞伎座初上演!この夏、演劇界話題の出逢い」(ちらしより) 舞台を日本に移して オーシーノ公爵やオリヴィアは お公家さん ヴァイオラやセバスチャンは武家 という設定です。
ともかく 蜷川です。 何が蜷川って。 まず 幕開け。 幕があくと 舞台全面鏡です。 舞台の奧の鏡に 客席が写っているのですから それだけで どよめき。 試しに手を振ってみているお客さんもいました。 で それは ほんの一瞬で すぐに暗転。
次に明るくなった時は 鏡の向うにライトが当たって 鏡の向うが透けて見える様になっています。 鏡の向うは 一面に桜。 チェンバロや 異国の音楽を演奏する楽人達。 手前の鏡には うっすらと 客席が写っています。 そこに 花道を歩いてくる 信二郎扮する大篠左大臣(オーシーノ公爵) 花道には強い照明が当たっているので その姿は 舞台の上の鏡にくっきりと写ります。 それは まるで 鏡の奧の桜の園の中を歩いてくる様な錯覚。
こんな感じ。
そのあとも 大がかりな演出が続きます。 ここは ディズニーランドか? という様な局面も。。。 文句無しに面白かったのですが これで 良いのか 悪いのか 分かりませんー(← 頭 固いかも(>_<)) それでも コクーンほどには 波瀾万丈の舞台にはならずに やはり ここは 歌舞伎座。 演出の違和感は 次第に 置き忘れられ(単なる慣れ?) 物語に引き込まれていきました。
菊之助は 本当は 女性の 琵琶姫(ヴァイオラ)で 遭難後 男性の獅子丸(シザーリオ)に化けて 大篠左大臣に仕えます。 本来は男性の役者が 女形をやって その女形は 舞台の中で男装している という二重の倒錯があります。 それは シェイクスピアの時代の舞台と 一緒です。 大筋は男性のふりをしているのですが 時々 「女性」が出てきます。 この「女性」が 良い。 左大臣を見つめる 獅子丸 この時は お小姓姿なので 変なのだけれども その顔は まるで 女の子の顔です。 菊之助は 女形の方が似合うなぁ と思いました。
鏡は 最初に登場するだけではありません。 芝居が続く間 ずっと 舞台奧に鏡 襖は鏡 舞台袖も鏡(舞台転換の時が面白い) 全編を通じて 現実と虚構のないまぜ という雰囲気が よく出ています。 しかも 自分も鏡に写っているのですから 観客だと思っていた 自分が いつのまにか舞台にいる。 鏡に写る 役者さんの後ろ姿と客席。 視点がどこにあるのか分からなくなりそうです。 そして 最後には 鏡は真実を映す と言う事で 舞台の設営が動いて 鏡の手前も 向うも 一緒の1つの世界になってしまう という 綺麗なオチがついています(なんていう説明は どこにも書いてないですが。でも そんな印象)
この芝居を引っ張っているのは 菊之助です。 この若さで すごいなぁ。 勘九郎に続くパワーを感じるのは 若い世代では まず 菊之助。 この『十二夜』も 菊之助ひとりの為の芝居の様なものです と思ってみていたら 最後は オヤジ が持ってった(笑) 流石 菊五郎。 親子の世代が こうして 新しい演劇の中で 同居している というのは 見ていて 気持が良いです。 よい家庭なだろうなぁ。
ちょっと ん? と 思ったのは 出てくる役者さんの数が少ない。 論理的で ストーリーテリング的な要素が強いので そうなるのかな。 確かめた訳ではないけれども おそらく シェイクスピア劇は どれも こんな感じなんじゃなかろうか と思う。 登場人物が 多くて 2ページくらいで列挙できてしまう様な。 シェイクスピア劇団は 歌舞伎と違って そんな大所帯じゃなかったのかな。 役者さんの数が少なくて ストーリーを追っていく というあり方は 狂言に近い。
あと コメディはコメディなんだけれども 「なんで ここで笑うねっ!?」という客席。 わたしも つい笑ってしまったけれども。 最後 斯波主膳之助と琵琶姫が再会を喜ぶシーン。 菊之助は 主膳之助をやっていて 琵琶姫は 他の役者さんが 代理で舞台に立っています。 それで 声は 主膳之助も 琵琶姫も 両方とも 菊之助がやる。 主膳之助のセリフの時はよいですが 琵琶姫のセリフの時は 菊之助が腹話術をする訳です(ですよね? これ?) 変。 でも おかしい。 菊之助 よく頑張った☆
あとは ●●姫に 身も世もないほど 恋こがれていた人が 事情が変わると 次の瞬間に ころっと ○○姫こそ 自分にとって 運命の人だ みたいに振る舞う事に対する違和感 というのは シェイクスピアには いつも付いて回るので 不問にしよう(ロミオとジュリエットだって そうだった)
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