60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

漢字の分解

2006-05-22 00:01:43 | 言葉と文字

 単語を文字で表そうとする場合、単語ごとに文字を当てていくと、限りなく多くの文字が必要になってしまいます。
 文字が生まれたときはどの文字でも、象形文字のように絵文字に近いものから始まったのでしょうが、限られた文字数で音声を表現する方式を取り入れています。
 日本語のように音声が比較的単純であればカナで一音節に一文字を対応させればすみます。
 たとえば「う」+「ま」とすれば「うま」となり、「うま」は「う」+「ま」とすることができます。
 カナが読み書きできれば、「う」と「ま」を書くことで「うま」と書くことができ、「うま」と書いてある字を見れば「う」と「ま」で「うま」と読むことができます。
 「馬」という字であれば、ここでは「う」という音を示す要素はないので文字ごとの読み方、書き方を覚えなくてはなりません。
 カナのような表音文字であれば図のBのように単語を音声に分解したり、逆に音声から単語を構成することができます。
 
 漢字のような表意要素を持った文字の場合は、単語を音声に還元する仕組みは不完全で、音声の分節が不完全です。
 アルファベットを使った言語の場合は文字が音声を表現しているので、規則を覚えれば26という少ない文字で多くの単語を表現できます。
 このためヨーロッパ人は漢字を使っている言語より、アルファベットを使っている言語のほうがより進化しているというようなことを言っています。
 しかし、アルファベットを使った場合でも、たとえ読み方が分かったところで、意味が分かるというわけではなく、音声で聞いて意味が分からなければそれまでです。
 アルファベットが音声を表示できるというだけでほかの文字に比べて優れているといっても、アルファベットは2進法の数字に置き換えられるので、それだけでは優位の根拠にはなりません。
 
 漢字の場合は形成文字が80%ぐらいで大部分を占め、この場合は意味の部分と音声を表す部分で構成されています。
 意味の部分といっても意味の範囲という程度で意味を特定できるということではありません。
 たとえば灯という字は火に関係する単語だというところまでの意味をしまえしていますから、いわば文字の意味のヒントが与えられているということです。
 丁の部分が音声の部分を表しているのですが、汀の場合と発音は似ていても違うのです。
 形成文字の場合は音声を示す部分が同じであれば、発音になっているかといえば必ずしもそうとはいえないのです。
 つまり音声を示す部分も音声を示しているというより、読み方のヒントを示しているのです。
 そうすると形成文字は、読み方と、意味の二つのヒントで単語を特定しているということになります。

 日本で漢字を使う場合は、読み方が中国の発音どおりでなく、日本式の発音になると似たものがすべて同じになってしまうということがおきます。
 たとえば日本式の音読みで「えい」と読む字は栄、英、嬰、衛、営、永などがありますが中国読みでは同じではありません。
 日本式の読み方では同音異義がずっと多くなるので、音声を聞いて意味の見当をつけるのが難しくなるので、文字の意味の部分を参照に頼ることになるのです。
 ところが意味の部分というのは意味の範囲ということなので、文字の意味は別途に学習しなければならないのです。


当て字と当て読み

2006-05-20 23:36:19 | 言葉と文字

 漢字がどのようにして成立したかを説明するものとして、仮借、転注という理論があります。
 仮借はいわゆる当て字で、発音が同じ単語に別の文字を代用させるものです。
 征はもとは正という字を流用していたのを、正を正しいという意味に特化した結果、別に征という字を作ったということです。
 もともと正には攻撃、強制という意味があったので、征服の意味の征に流用されたわけで、力は正義だという感覚が大昔からあったことが推測できます。
 女を「なんじ」という意味の言葉「ジョ」と発音が同じだったのでこれを流用。汝という字が作られても女で代用している場合があります。
 然も燃えるという意味で使われていて、燃という字ができても然が「燃える」という意味で使われていたりします。

 このような紛らわしいことがあるのは、漢字が特定の人たちによって一気に作られたのではなく、自然に作られてきたことをうかがわせます。
 漢字には合理的な構造がありそうで、矛盾する面がついて回っているのです。
 
 転注というのは共通の意味を持つ単語が同じ文字の中に同居する場合のことで、同じ文字ながら発音の仕方が違うものです(発音が同じならそれは単なる多義語ということになります)。
 悪は「醜い」という意味が共通で「アク(わるい)」という語と「オ(にくむ)
」という語をを同居させています。
 楽は「楽しませる」という意味を音楽の「ガク」、享楽の「ラク」が共有しています。
 ほかに好という字は「好む」と「よい」が同居しているのですが、日本風の音では「コウ」で同じですが、中国語では発音が二通りで別だそうです。

 cは千野栄一「注文の多い言語学」に載っていた表記法で、「限りなく透明に近いブルー」のブルーを転注文字にしたものです。
 青とブルーは「青い」という意味を共有しているので、ブルーの変わりに「青」という字を使っているのですが、単に青と書いては「ブルー」という読み方をさせることができず、「ブルー」の別の意味を受け取ってもらえません。
 そこで紛らわしさを除くためEという字を前につけて (英語で読んでほしいというつもりでEを青の前にくっつけているというのです。
 面白いアイデアですが、これからどのような議論が発展させられるか今のところは思いつきません。
 


視野を広げる

2006-05-19 23:23:30 | 視角能力
 aの内円とbを比べるとaの内円のほうが大きく見えます。
 次にbとcの外円を比べると、bのほうが大きく見えます。
 bとdをくらべればbのほうが大きく見えます。
 これらは本当はすべて同じ大きさなのですが、見比べると大きさが違って見えます。
 いずれも見比べるときに視線を動かすことによっておきる見え方の変化なのですが、視線を動かしていることに気がつかないので、錯覚であると解釈されています。
 
 ここでaの内円とbを見比べるとき、視線を動かさないで二つの円を同時に見てみます。
 二つの円の中間あたりに視線を向けてから、左右にある円を同時に見るわけです。
 そうすると、なんとなく二つの円を見比べたときと違って、二つの円の大きさは同じ大きさに見えます。
 同じようにbとcの外円を同時に見ると、やはり普通に見たときと違って二つの大きさは同じに見えます。
 またbとdを同時に見れば同じ大きさに見えます。
 その結果すべての円が同じ大きさであることが理解できました。
 
 つぎにaの内円とcの外円を同時に見てみます。
 距離が離れている上に真ん中にbがあるのでついそちらに視線が向いてしまうので、左右にある二つの円を同時に見るのは難しいと思います。
 そこでまず、bを見ながらaに視線を向けて二つの円を同時に見てから、bに視線をむけたままcを見るとaとcを同時に見ることができます。
 このとき二つの円が同じ大きさに見えれば、aの内円とcの外円を同時に見ているのですが、aのほうが大きく見えるのであれば、視線が動いています。
 二つの円の距離が離れれているので、同時に捉えきれず、つい視線を動かしてしまっているのです。

 同じようにaとdを同時に見てから、dを見たままcを見るとa、b、c、dの4点同時視ができるようになります。
 最初はうまくいかなくても、練習をすれば同時に見ることはできるようになりますがじっと眼を凝らしていると眼が疲れてしまいます。
 そこで、じっと見るばかりでなく、いったん眼を閉じてから眼を開いたときに同時に見るようにします。
 aの内円とbとかbとc、bとdなど二つの円を同時に見ることからはじめ、適当な3点を同時に見るようにすればよいのです。

 錯視の多くは何度も見ているうちに少なくなってくるといわれています。
 これは繰り返し見ている間に図形の配置を覚えてくるので、視線を動かさなくてもほかの部分を認知できるようになるためです。
 すべての錯視現象がそうだというわけではありませんが、多くの錯視は視線を動かしてみるために見え方が変わってしまうためにおきます。
 普通は眼を動かしてしまっていることに気がつかないため、同じものが変わって見えると感じるのです。
 眼を閉じてからあけてみる場合は、視線を動かす前の段階の見え方をする瞬間があるので、そのときの見え方に注目すれば錯視が生じてない見え方がわかるのです。

視幅を広げる

2006-05-18 23:19:56 | 視角能力

 斜線の入った二組の長方形は実は平行なのですが、平行には見えません。
 二つの長方形を見比べるときに、視線を無意識のうちに動かしてしまうので、平行に見えなくなってしまうのです。
 視線を動かさなければ平行に見えるのですが、普通に見るときは気がつかないうちに目を動かしています。
 視線を動かさないようにするには、一点を注視する方法のほかに、二点を同時に見る、二点同時視というほうほうもあります。
 
 左の図の場合は横にある文字を同時にみつめるものです。
 abcという字が左右にあるので、たとえばbという字を同時に見ようとします。
 左側にある文字をハッキリ見ようとすると右側の文字がぼやけてハッキリは見えなかったりするでしょう。
 片方の文字が見えているとき、もう片方の文字は周辺視野で文字があるのはわかるのですが、形を確認することができないという状態です。
 両側の文字が見えたとしても、二つの長方形が平行に見えなければ、視線が動いてしまっているので、同時視はできていません。

 眼の力を抜いて、やわらかくゆっくりと両側の文字を見れば、片側だけで見たときよりややぼやけてはいるのですが、文字を読むことができます。
 このとき二枚の板は平行になっているように見えます。
 つまり、二点同時視ができているかどうかは二枚の板が平行に見えているかどうかでチェックすることができるのです。
 最初のうちはうまくいかないかもしれませんが、何回も繰り返し努力すればだんだんできるようになります。
 
 右側の図はたての二点同時視の例です。
 左の場合と同様、上下の二つの文字を同時に見ることができれば二つの長方形は平行に見えてきます。
 二点同時視ができると、視幅が広がるので同時に読み取れる文字数が増えてきます。
 理解力が増加するだけではなく、文字を早く読み通れるようになるので、文字を凝
をせずに済むのため眼の疲労をふせぐことができます。


周辺視力を鍛える

2006-05-17 22:36:02 | 視角能力

 左の図を見ると横線は4本とも水平線なのですが、斜めに見えます。
 これは見るときに、無意識のうちに目を動かしているためです。
 視線を動かさなければ水平に見えるのですが、全体をよく見ようとするとつい目は動いてしまうため斜めに見えるのです。
 ここで真ん中に並んでいる数字の一番右にある7という数字を見つめて見ます。
 そうするとほかの数字は6だけあるいは5までぐらいしか読めないかもしれません。
 あとの数字は見えるけれどもはっきりそれとは認めることはできないでしょう。
 あとの数字がはっきりと認識できるとすれば、読もうとして左のほうに視線を動かしているのです。
 7と6ぐらいしかはっきりわからないというときは、ほかの数字は周辺視野にあるためぼんやりとしているのです。
 
 このとき横の線ははっきりとは見えなくても水平に見えているはずです。
 視線を動かさないで見ると焦点距離が変わらないので、見え方が変わらないため、錯視が起こらないためです。
 7の部分は中心視されているのではっきり見えますが、そこから遠ざかるにつれぼやけて見えます。
 もしぼやけている部分をハッキリ見ようとすると思わず視線が動くので横線が斜めに見えてしまいます。
 
 7から視線を動かさないままで、左に並んでいる数字をなるべく多く読もうと注意だけを左に向けてみます。
 並んでいる数字はわかっているので、ぼんやりしか見えないはずでも注意を向けることで、だんだん読めるようになります。
 もし読もうという気が強すぎて視線を左に向けてしまうと、横線は斜めに見えてしまいます。
 横線が水平に見える状態で左の数字がハッキリ見えればそれだけ周辺視野での認識範囲が広がったということになります。

 つぎに、左のほうへ認識範囲を広げるだけでは片手落ちなので、右のほうへ認識範囲を広げる練習をします。
 この場合は一番左の1という数字を注視し、右側に注意を向けます。
 横線が水平に見える状態で右側の数字をなるべく遠くまで認識しようとするわけです。
 
 左右の周辺視野だけでなく上下の認識範囲を広げる場合は右側の図を使います。
 今度は縦線が垂直に見える状態を保ったまま、上または下に注意を向けてその先の数字を認識する練習をします。
 周辺視野を鍛えて、認識範囲を広げるといっても、その結果視力が向上するということではありません。
 視力が向上したように感じたとしても、判断力が鍛えられたからハッキリ見えるように感じられるのであって、光学的に眼の組織が変化したわけではありません。
 網膜の視細胞や、脳の視覚神経細胞は加齢によって減少するので、少ない刺激量からでも判断できるように練習するわけです。


見方と見え方

2006-05-16 22:43:55 | 視角と判断

 図の線aとbを比べるとbのほうが長く見えます。
 縦の線と横の線で縦の線が長く見えるのですが、cとdを比べた場合はdのほうが長く見えます。
 片方の線が二分割されているためで、縦横の関係より分割のほうが強く影響しています。

 ところで右の図で、AとBを比べるとBのほうが長く見えます。
 つぎにBとCを比べればCのほうが長く、CとDをくらべれば、Dのほうが長く見えます。
 そうすると当然DはAよりも長くしかもかなり長く見えるはずです。
 ところがDとAを比べればAのほうが長く見えます。
 論理的には A<B, B<C, C<Dならば当然 A<Dのはずが、A>Dに見えるのです。。
 一つ一つを比べて見た場合は矛盾が出てきますから、これを説明するにはA,B,C,Dをそれぞれ二つづつ比較したとき、一方が長く見えたのは錯角なのだといわざるを得ません。

 A,B,C,Dは実際には長さが等しいので、このうちの二本の線を比べて一方が長いというのは錯覚です。
 しかしA<Dに見えるはずのところがD>A に見えるというのはおかしいでしょう。
 これは見方がそのつど変わっていることに気がついてないので矛盾に感じるのです。

 AとBを比べたときBのほうが長く見えたのですが、つぎにBとCを比べるときには、先ほど見たときとBは同じ見え方ではなく、同じ長さに見えているわけではないのです。
 同じようにCとDを比べるときのCの見え方はBと比べたときの見え方ではなく、DとAを比べたときのDの見え方は、Cと比べたときの見え方ではないのです。
見方がそのつど変わっているので、記号が同じであっても見え方が変わっているのです。

 aとbのように比べて見たとき短く見えたほうの長さの見え方をS、長く見えたほうの長さの見え方をLとしてみましょう。
 右の図ではAとBを比べたときBの長さはLに見えますが、Cと比べるときはSに見えるのです。
 同じようにCはBと比べたときはLに見えますが、Dと比べるときはSに見えます。
 DもCと比べるときはLの長さに見えますがAと比べるときはSの長さに見えるので、見え方の上では結局矛盾がなくなるのです。

A,B,C,Dすべてをひと目で見ればそれぞれが同じ長さであることは自動的にわかるのですが、部分的に比較していくと見え方が違うために混乱するのです。
 視線を動かして見方が変わったとき見え方は変わるのですが、それに気がつかず同じものは同じ長さに見えていると思うから錯覚が生じるのです。


視線のスリップ

2006-05-15 23:57:43 | 視角能力

左の図には三つのパターンが埋め込まれています。
同心円と、右回りと、左回りのねじれながら広がる放射線です。
見ていると、同心円が浮き出たり、放射線が浮き出たりするように見えるため、図形がつれ動くように見えます。
同心円のパターンを確認しようとすると、視線がスリップしてなかなかうまくいかないでしょう。

ここで息を吸いながら目を閉じ、いったん息を止めてから、息を吐きながらゆっくり目を開けながら図全体を見ます。
そうすると、視線がスリップしないので、同心円のパターンが見て取れます。
呼吸によって意識が安定し、集中力が増しているためです。
いったん目を閉じてから開けていくと、視線が安定するので、ものの輪郭が少しはっきりするので、視力が上がったような感じがします。
もちろんこれは一時j的なものなのですが、目が安定してはっきり見えるようになった感覚が得られるので、時々実行してみる価値があります。

右の図は左よりやや複雑な図形で、四つのパターンが埋め込まれています。
同心円、直線の放射線、右回りと、左回りのねじれながら広がる放射線です。
一番見て取りやすいのは直線の放射線で、同心円は一番外側と真ん中の部分だけで、
後は視線がスリップするので、指でたどったりしなければ同心円であることを確認しにくいでしょう。
渦巻状の放射線パターンは線には支えられていなくて、白または黒のブロックの配置パターンによって支えられています。
この場合もいったん目を閉じ、ゆっくり息を吐きながら目を開けていくと、より視線が安定するので、パターンがよく見えます。
特に円形パターンを見ようとするときは、円形パターンを強く意識しないと中心に近い部分になるにつれ困難ですが、集中力の訓練にすることができます。。

 

 


自動的な読み

2006-05-14 23:07:15 | 文字を読む

 図はサリー・シェイウィッツ『読み書き障害のすべて』からのものです。
 文字を読んでいるときに脳が使われている場所を示したもので、読み書きに障害のある人はもっぱら前頭葉の下前頭回を使って、自動的で高速な後頭側頭部を使わないために、読みの速度が遅く、困難であるとしています。
 文字を読むということは、記号を見て意味を理解することなのですが、記号が音声と結びついていれば、音声を通して意味を理解することが出来ます。
 普通の人は特に習わなくても、音声言語はある程度覚えてしまいます。
 文字よりも先に話し言葉を覚えているので、文字を覚える場合は音声と結び付けて覚えるのが普通です。
 
初歩の段階では、耳で聞き覚えている言葉の範囲で、文字を教え、読み方と書き方を教えています。
 文字を見ただけでは意味が分からないので、読みかたを教えれば、耳で覚えている言葉であれば意味が分かります。
 覚えはじめのうちは文字の一つ一つをたどりながら、音声に変換してそれから意味にたどり着くということを繰り返すうちに、文字全体をひと目で見て自動的に意味を理解するようになります。
 後頭側頭部は単語をひと目で見て意味を理解するときに使われる場所で、読みに熟達してくるとこの場所が使われるようになるということです。
 読みに障害のある人はいつまでもこの場所を使うようにならず、音読などをしていちいち音声に変換してから意味を理解しようとするので、理解が遅くなるといいます。
 英語などアルファベットを使う言語では、文字は話し言葉を写すためのものと考え、読むということは音声に変換することがという考えが強いのですが、実際に読みなれてくればいちいち音声に変換せず、文字を見ただけで自動的に意味を理解するようになるのです。
 この点では表意文字である漢字を読むのと同じで、音声を介さない自動的な過程になるのです。

 ところで音声に変換すれば意味が分かるというのは、音声で聞けば意味の分かる言葉だからです。
 ところが文字に書かれているものを読んで知識を得ようとすると、知らない言葉が出てきます。
 知らない言葉は音声に変換して読むことが出来たとしても意味は分かりません。 音声による言葉の知識がよほど多くないと、読むことが出来ても意味の分からない言葉にしょっちゅうぶつかってしまいます。
 そうすれば何らかの方法で読み方が分かっても、意味が分からないという場面が出てきます。
 
 意味が分からなければ、辞書などで意味を調べればよいのですが、読めれば意味が分かったような感じがして、先へ進んでしまったり、読めなくてもスキップして読み進むようになったりします。
 音声に変換することだけが読みではないということは、アルファベットを使った文字の場合でも言えることで、意味を理解する方法が別に必要なのです。
 ヨーロッパの言語は音素文字で、表意文字の漢字より進歩しているという説がありますが、音声と意味を結美つけなければ習いので、アルファベットが優れているということにはなりません。
  


文字を読む回路

2006-05-13 23:16:20 | 文字を読む

 アメリカでは教育を受けているのに読み書きの障害のある子供が5人に1人に上るそうです。
 視力や知能、話す能力はあるのに文字がまったく読めないという子供がいたり、数字は読めて数学的能力はあるのに文字が読めないという例もあるといいます。
 論理的に考えたり、推測をしたりといったほかの能力は他人より優れているのに、読むことだけが非常に劣るということもあるそうです。

 サリー・シェイウィッツ『読み書き障害のすべて』によれば、読みの障害(ディスレクシア)の原因は、文字を音声に変換する機能が働かないためだといいます。
 脳の中には文字を読むための回路が三つあり、初心者の使うゆっくりした回路が前頭葉と側頭葉にあり、後頭側頭部に単語形態領野と呼ばれる高速処理の回路があるとのことです。
 ディスレクシアの子供や大人は、高速処理の回路を使わないため、脳のほかの部分を代用して読もうとするので、間違えたりするといいます。

 文字を音声に置き換えるのがスムーズにいかないのは、英語の正書法が複雑で、不規則が多いためです。
 アルファベットは音声を写すものだといっても、発音とスペルは一律の規則で対応しているわけではありません。
 ドイツ語などと比べ英語は変則が多いので、ディスレクシアが多いといいます。
 図のように(ea)という綴りが[ei],[e],[i:]と三通りに発音されたりするのですからある程度単語ごとの読みかたを暗記しなければなりません。
 規則性にこだわりすぎると読めないということが起きてきます。
 ディスレクシアの子供は、論理力はあるが暗記が苦手の場合が多いというのは、暗記をしないと読めない綴りが多いためかもしれません。
 
 綴りに対する読みかたを暗記してしまえば、読むことになれるにつれ、高速の回路で読みの処理が行われるようになり、単語を見た瞬間に意味が分かるようになって読みが速く行われるようになるということです。
 一単語を0.15秒程度で読むようになるというので、この段階では単語を音声に変換せず、見ただけで意味を理解しています。
 初期の段階では、単語を見て音声に変換して、その結果意味を理解したのが、何回も繰り返すうちに見てすぐ意味が分かるようになるのです。
 音声に変換する段階でうまくいかないと、高速処理の段階に行かないのです。

 日本語の場合は平仮名は読み方が一定なので、平仮名だけはほとんどの子供が読めるようになりますが、漢字はそうはいきません。
 漢字は音だけでも4通りもあり、さらに訓読みがいくつもあるので、英語などよりも読みかたを覚えるのは大変です。
 平仮名だけはたいていの子供が読めるので、日本ではディスレクシアが目立たないのですが、案外アメリカなどと変わらないのかもしれません。
 ただ日本での漢字の使い方は意味が同じでも音読みしたり訓読みしたりと、読みが一律でないので、文字と意味の対応をおぼえ安い可能性はあります。
 日本語の場合は読みが間違っても、意味は理解している場合もあるノデ、ディスレクシアの率は下がるかもしれません。


空白を埋める

2006-05-12 22:50:43 | 文字を読む

 記憶がハッキリしていない場合は、示唆の影響を受けやすいので、aのような質問を受けると記憶が変形する場合があるそうです。
 信号は赤であるのを目撃していたのに、黄色でしたかと聞かれ、黄色だったと思ってしまったり、男が眼鏡をかけていなかったのに、眼鏡をかけていたのを思い出すかと聞かれると、かけていたと思い出したりする例があるといいます。
 記憶がハッキリしていないときは、質問者から示唆をされるとその言葉で記憶イメージを補強してしまうのです。
 つまり脳には空白部分を補完しようとする傾向があるということで、穴が開いた状態を埋めようとするため、だまされることもあるのです。

 bのように伏字があれば、たいていの人はこれを埋めて読もうとします。
 カタカナ一文字を埋めるのですが、手がかりは前後のカナ文字と、文章全体の意味です。
 日本語は言葉を思い浮かべるとき漢字をイメージするという説がありますが、この場合は読みが確定していないので、漢字を先に思い浮かべるわけにはいきません。
 全体の意味とそれにマッチしそうな言葉を音声として思い出さないと適当であるかどうか判定できません。
 意味として適合し、音声として適合する単語を思い出せればよいので、特に漢字にしてみる必要も内容に思えます。

 cは誤用例なのですが、檄や綺羅という字の意味を知らないで使われているのですが、どのような意味と感じて使っているかは、読む側も感じ取ることが出来ます。
 読む側がこれらの文字を知らなければ、知らないままにするか辞書で調べればよいのですが、多くの場合は誤用した書き手の意味を感じ取って受け入れてしまいます。
 意味が分からないまま空白の状態にしたくないので、書き手の感じている意味を受け入れてしまうのです。
 そうすると誤用が再生産されて、普及していくということになります。
 dの場合は漢字が伏字になっていますが、この程度の場合は特に考えるまでもなく半ば自動的に伏字部分を生めることが出来ます。
 前後の文字と全体の文脈から適合する文字が自動的に思い浮かべられるのです。
 この場合も思い浮かぶのは文字が最初でなく、音声です。
 文字が最初に思い浮かぶという人もいるでしょうが、たいていは問題文の前後の意味と読みから、音声を推測して単語を思い浮かべることになります。