60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

イメージの補完

2006-05-12 22:48:12 | 文字を読む

 記憶がハッキリしていない場合は、示唆の影響を受けやすいので、aのような質問を受けると記憶が変形する場合があるそうです。
 信号は赤であるのを目撃していたのに、黄色でしたかと聞かれ、黄色だったと思ってしまったり、男が眼鏡をかけていなかったのに、眼鏡をかけていたのを思い出すかと聞かれると、かけていたと思い出したりする例があるといいます。
 記憶がハッキリしていないときは、質問者から示唆をされるとその言葉で記憶イメージを補強してしまうのです。
 つまり脳には空白部分を補完しようとする傾向があるということで、穴が開いた状態を埋めようとするため、だまされることもあるのです。

 bのように伏字があれば、たいていの人はこれを埋めて読もうとします。
 カタカナ一文字を埋めるのですが、手がかりは前後のカナ文字と、文章全体の意味です。
 日本語は言葉を思い浮かべるとき漢字をイメージするという説がありますが、この場合は読みが確定していないので、漢字を先に思い浮かべるわけにはいきません。
 全体の意味とそれにマッチしそうな言葉を音声として思い出さないと適当であるかどうか判定できません。
 意味として適合し、音声として適合する単語を思い出せればよいので、特に漢字にしてみる必要も内容に思えます。

 cは誤用例なのですが、檄や綺羅という字の意味を知らないで使われているのですが、どのような意味と感じて使っているかは、読む側も感じ取ることが出来ます。
 読む側がこれらの文字を知らなければ、知らないままにするか辞書で調べればよいのですが、多くの場合は誤用した書き手の意味を感じ取って受け入れてしまいます。
 意味が分からないまま空白の状態にしたくないので、書き手の感じている意味を受け入れてしまうのです。
 そうすると誤用が再生産されて、普及していくということになります。
 dの場合は漢字が伏字になっていますが、この程度の場合は特に考えるまでもなく半ば自動的に伏字部分を生めることが出来ます。
 前後の文字と全体の文脈から適合する文字が自動的に思い浮かべられるのです。
 この場合も思い浮かぶのは文字が最初でなく、音声です。
 文字が最初に思い浮かぶという人もいるでしょうが、たいていは問題文の前後の意味と読みから、音声を推測して単語を思い浮かべることになります。
 


ひと目で読める範囲

2006-05-11 23:22:48 | 文字を読む
 文字を読む場合ハッキリと見えるのは眼の中心窩でとらえられる7文字程度といいます。
 その周辺はハッキリとは見えないのですが、そのようには意識しないで見えているような感じです。
 しかし中心から視線を動かさずに、周辺にある文字を読もうとするとハッキリと読み取ることは出来ません。
 図のようなぼやけ方とは感じが違うのですが、輪郭がハッキリしないため読み取ることが困難になっています。
 ハッキリと確認することが出来なくても、おおよその形はわかるので、それが手がかりとなって周辺の文字を読むことが出来る場合があります。
 このとき、ひと目で見て分かる文字数は倍以上になったりします。
 知らない文字や、なじみが薄い上に複雑な文字は読み取ることが出来ませんが、文章の流れを把握していれば、脳が補完して読み取ることが出来ます。
 一つ一つの文字の細かい部分を見極めて読んでいるのではなく、おおよその形をアタマで記憶しているイメージと対照して読み取っているのです。

 「顰喧黷褻蹙欒魑魅髑魍黔魎猥碍囂黜鸚驂」のようになじみのない文字が並んでいる場合であればひと目で見ることは出来ても、詳しく文字を見分けようとすればひと目では7文字どころか5文字も難しいでしょう。
 ところが「お婆さんは川に洗濯にいきました。そして」というような文章であれば、全部ではなくてもほとんどひと目で読むことが出来ます。
 
 同じぼやけるといっても、漢字と仮名では仮名のほうが形が簡単でなじみがあるので認識しやすいので、注意を集中しなくてもすみ、周辺視野にあっても読み取ることが出来るのです。
 図の下のように文字を小さくしていった場合でも、漢字部分は読みにくくなっていって見分けがつきにくくなりますが、ひらがなの部分はかなり小さくなっても読むことが出来ます。
 そこで漢字の振り仮名に使うルビは漢字に対してかなり小さいのに使われているのです。

 漢字かな混じり文は漢字と平仮名で読み取りやすさが異なるので、文字列に抑揚が出来分かち書きをしなくても文節が把握しやすく、漢字に注意を集中していくことで意味が理解しやすくなっています。

「見える」と「見てとる」

2006-05-10 22:35:39 | 視角と判断

 図aを見たとき、人間は三角形の上に長方形が重なっていると見るのが普通です。
 ところがハトを使った実験では、ハトはb図のように長方形と変形五角形があるというふうに見るそうです。
 つまり見えたままに受け取るということです。
 人間の場合は、長方形で隠されていると見て、隠されている部分を補ってみるのに対して、ハトは隠れている部分を補って見たりはしないと心理学では解釈されています。
 人間のほうが知能が発達しているから、見えない部分を補って見ることが出来るのに、ハトは知能が発達していないので、見えたままに解釈することしか出来なりというのです。

 ナルホドそうかと思う反面、何かおかしいなと思うのではないでしょうか。
 ハトは平面に描かれている図については、見えたままに解釈したのでしょうが、実際に二つのものが重なっているのであれば、重なって見えない部分があると解釈するのではないでしょうか。
 たとえば、c図のようにハトの天敵であるカラスが見えた場合、胴体の千切れかかったカラスがいるとは見ないで、胴体の一部分が隠されているカラスだと見て警戒するでしょう。
 ハトがb図のように解釈してしまうというのは、三角形の形がハトにとってなじみがないということもありますが、平面に描かれたものは、実際には重なっていないからです。
 実際にカラスが見えた場合は、部分的に隠されていてもカラスであると見ることが出来ないようであれば、ハトにとってもとても不利になります。

 d図では文字の一部分が隠されていますが、普通の日本人であれば、電車という字の一部分が隠されていると答えるでしょう。
 脳は隠されている部分を補って読むので、単純に見えたままを読もうとしているではなく、「電車」と見て取っているのです。
 視覚的に見えたままに解釈するのではなく、脳による解釈にしたがって「見てとる」のです。
 文字や単語の知識やイメージがあるから、その知識によって見えない部分があってもそれを補って解釈することができるのです。

 文字や文章を読むときには文字の細かい部分を一つ一つ確認したり、単語の部分部分を細かく確認しながら読んでいるわけではありません。
部分が分かれば全体をイメージすることが出来るのでそれと見てとってしまうことが出来るのです。
 これは便利なのですが、間違って解釈してしまった場合は、なかなかそのことに気がつかないようになってしまいます。
 自分が書いた原稿の校正が難しいのは、脳が自動的に補完してしまうのでミスに気がつきにくいためです。
 校正は第三者がしたほうが良いとされるのは、自動的な補完がされにくいためです。


意味の補完

2006-05-09 23:35:10 | 言葉の記憶

 漢字かな混じり文というのは、単に漢字と仮名が混じっている文章というわけではありません。
 図のような文章は平仮名部分をすべて伏せたものですが、大体の意味はとらえることが出来ます。
 これは例がニュース文であるため、漢字の割合が多く、文章の構造が複雑でないためです。
 これが逆に漢字を伏せて、平仮名部分だけを表示した場合であれば、何が書かれているかはまるで分かりません。
 また「税務署、警察■■■■福祉関係■事務所■調査、知能検査■■■■■■個人■■■■■情報■得■、■■個人■対■■対策■■■■■■調査■統計調査■■■■」のような文章構造が複雑な例であれば、何についての文章かはある程度分かっても正確な意味をとらえることはかなり困難です。

 チンパンジーが覚えた「僕 食べる バナナ」という文章のように簡単なものであれば、つなぎの言葉はなくても意味が分かりますし、言葉の並べ方を変えても意味が分かります。
 普通の日本語の漢字かな混じり文では、意味のある部分を主として漢字で表記し、つなぎの部分をカナで表記しているので、おおよその意味は漢字の部分を見るだけで分かるようになっています。
 つながりの部分が伏せられていても、脳が推測によって文章を補完するため意味を理解することが出来るのです。

 補完するといっても文字を一つ一つ追っていってはできません。
 文全体を見渡して、配置されている意味のある単語をまとめるためには、ある程度の視野の広さが必要です。
 視野が広ければ、一度に目にする単語が多くなるので意味のまとまりが推測しやすくなります。
 推測するということは隠されている部分を補完して解釈するということで、経験や知識が根拠となります。

 ふつうの文章を読む場合はカナの部分が伏せられているわけではないので、漢字を中心に見ていっても、カナは目には入っています。
 したがって、肯定か否定かといった重要な部分については判断に組み入れることが出来ます。
 ひらがなは漢字に比べ周辺視でも認識しやすいので、漢字重点で見ていってもポイントで判断要素に入れることが出来ます。
 漢字かな混じり文というのは、意味の主な担い手の部分である漢字よりも、補助的な部分であるカナのほうが認識しやすい形になっていることで、うまい具合に文章がつかみやすくなっているのです。
 文字を一つづつ追うのではなく、ある程度広い範囲をひと目でみて理解するのに向いているので、理解力を高めるためにも視幅を広げる必要があります。


広い視野で見る

2006-05-08 22:15:10 | 視角と判断

 小さな円に囲まれた円は大きく見え、大きな円に囲まれた円は小さく見えるのですが、これも視線を動かすからそのように見えるのです。
 ここで大きな円は左下にもあるのでこの円も含めて大きな円に注意を向けると、大小の円に囲まれている二つの円は同じ大きさに見えてきます。
 つぎに一番小さな円について見ます。
 大きな円の傍に一つ小さな円があるのでそれを含めて七つの円を見ると、大小の円に囲まれた二つの円も見えますが、二つとも同じ大きさに見えます。
 
 いずれの場合も二つの円を別々に見るのではなく、同時に見ているので同じ大きさに見えています。
 同じ大きさなのですから、同時に見たときに同じ大きさに見えるのですが、二つの円はそれぞれ別のまとまりの図に見えるので、別々に見てしまうのです。
 小さな円や大きな円を見るとき、それぞれ一まとまりのものとして見るため、大小の円に囲まれた円は同時に見えるので同じ大きさに見えるのです。
 基本的には視野を広げてみれば、全体をひと目で見渡せるので同時に見ることが出来、視野が狭すぎると別々にしか見れないということになります。
 
 二つの円が同じ大きさに見えているといっても、集中して見ているわけではないので、細かい部分まで本当に同じように見えているかどうか分かるわけではありません。
 細かい所まで詳しく見ようとすれば眼の中心窩で見なければならないのですが、その場合は非常に狭い範囲となるので、二つの円を同時に見ることは出来ません。
 二つの円を同時に見ているというときは、周辺視野で見ているので、粗い見え方です。
 それでも二つの円が同じ大きさに見えるということは、粗い見え方を脳が補完してみているからです。
 円形というものを脳が経験あるいは記憶イメージとして持っているため、およその形や、部分を見れば補完して円形だと判断しているのです。

 本当はハッキリ見えていないものでも、そのものをよく知っていれば、ハッキリ見えるように感じるものです。
 視力テストのときでも検査用の表を覚えてしまうと、本当はよく見えないところまで見えてしまい、視力が実際より高めに出てしまうということがあります。
 これは見えていないのに、記憶で答えるということでは必ずしもなく、記憶イメージがあると、部分的に見えていたり、不完全に見えていても脳が補完して全体的あるいは完全なイメージとして見せてしまうので、本人は見えたと思うのです。

 円のように単純な形の図形の場合は、脳の中にハッキリとしたイメージがあるので、じっくり見なくても大きさや形を判断できます。
 ものを見るとき、記憶しているものかどうかを判断するために、じっくり見なければ分からないというのでは、とても不便ですから、大まかに一致していればあとは脳が補完して判断しています。
 この円の問題でも、ひと目で二つの円を見て同じ大きさに見える程度の視野の広がりがほしいものです。


全体的に見ると

2006-05-07 20:44:49 | 視角と判断

 小さな黒点を結ぶと平行四辺形となるのですが、そういわれても信じられない人が多いと思います。
 ここで小さな黒点の配置を見分けようとせずに、横にある大きな円に注意を向けて見ます。
 大きな円の配置はランダムですが、大きさが同じで、近くにあるので四つともひと目で見て取ることが出来ます。
 たとえば左下の円に視線を向けても一番右の円まで視野に入りますし、ましてまん中の円に視線を向ければ残りの三つの円は同時にハッキリと見て取れます。
 このときふと小さな黒点を見ると四つの点は平行四辺形の角の位置にあることに気がつきます。
 大きな円を注視して、ついでに小さな黒点を見れば見え方が変わって平行四辺形の角の位置にあることが分かるのです。

 比喩的にいえば、細かい点に注意を奪われていると本当の姿が分かりにくくなり、大局的に見れば正しい姿が見て取れるということになります。
 部分的な見方にとらわれすぎず、全体的に見れば本当の姿が分かるというようにも言えますし、左脳で見るだけでなく右脳で見なければ判断を誤るというように説明することも出来ます。
 
 大きな円を見る場合は、形が同じでハッキリしているので記憶しやすく、ほかの円は眼の中心で見なくても、よく見えているような気がします。
 まん中の円に視線を向けてみれば、残りの三つの円は少し周辺になるのでややぼやけて見えているはずなのですが、同じ形の円なので記憶と結びつき、ハッキリ見えているような気がします。
 ハッキリ見えているような気がすれば、ほかの円がどんな円か視線を動かして見比べる必要がありません。
 一つ一つにむけて眼を動かさずに、ひと目で全体を見渡せることが出来るので、結果として大局的な見え方が可能になるのです。

 小さな黒点に注視を向けた場合は、どうしても位置の手がかりを傍の大きな円に求めてしまいます。
 そうすると大きな円が整列されていればいいのですが、ランダムに配置されていると小さな黒点の配置もゆがんで見えてしまうのです。
 ちょうど子供が悪い大人の傍にいれば、よいほうに感化されるのに、悪い大人の傍にいれば不良化するというような感じです。
 大きな円に注意を向けて見るというのは、一つの方法で、要は視線を動かさずに、ひと目で全体を見ることで全体の配置がつかめるということです。

 つぎは応用例で、右下の図は右下がりに見えますが、本当は水平です。
 この場合は上下一対の黒い四角形を一つの図形として見て、このパターンが並んでいると考えます。
 この一対の四角形をよく見て記憶してから図の左から三番目とか四番目の対の四角形に注意を向けます。
 そうすると左右にある四角形の対は、同じ形の図形で記憶と結びついているので、視線を動かさなくてもハッキリ見えます。
 このとき図形全体は右下がりでなく水平に見えるようになっています。


顔の回転

2006-05-06 23:49:15 | 視角と判断

 左側の図のうち、四つは同じ図形を回転したもので、残りの一つは鏡像で左右が反転しています。
 一つの図形には六個の顔が埋め込まれているのですが見分けがつくでしょうか。
 図形はほぼ三角形で、各辺が横顔の前面になっていて、それぞれの辺について上下逆方向から顔に見えるので合計6通りの顔となります。
 
 イメージを回転させて重ね合わせることが出来れば、同じものか鏡像かを判定することが出来るのですが、少し回転しても全体のイメージが変わるので、同じかどうかの判断がすぐつきません。
 たとえば一番上の左の図形の場合は、下を向いている顔左の横顔、上を向いている右の横顔、右を向いている右の横顔が目に入っているとします。
 これを60度時計と反対周りに回転させたのがその下の図なのですが、この場合は三番目が別の顔が見えやすくなってきています。
 同じ顔でも角度によってイメージが変わるので、見えやすくなったり見えにくくなったりするのです。
 
 なんとなく見ていると、いろんな顔の見え方が見えてくるので混乱するのですが、一つの顔に集中すれば見え方はすっきりしてきます。
 鏡像は左右が逆になるので、右の横顔であれば、左の横顔になります 。
 したがって、一つの顔に注目すれば、それが右顔になっているか、左が尾になっているかを見ればよいのです。
 そうすると、一番下の左を向いている顔に注目すれば、上の四つの図のうちこの顔が右顔になっているのは上から二番目の右側の図が鏡像であることが分かります。
 顔の場合はイメージを頭の中で回転するより、自分がその顔であるつもりになって回転したイメージを持てばよいので、判断は楽になります。

 右の図は左右が対照の顔なので、回転した顔なのか送でないのか分かりにくくなっています。
 笑い顔であるというイメージで見ると二番目の左は時計回りに60度、右側の図形はさらに60度回転させたものに見えますし、一番下は180度回転させたものように見えます。
 逆に怒っている顔であると見れば、上の顔が倒立して見え、まん中の左の顔は上の顔を時計回りに60度回転したように見えます。
 つまり,この顔は笑い顔にも怒り顔にも見ることが出来るのですが、どちらに見るかの決め手となるのは口の形です。

 笑っているほうの口に注目してしまうと、それが基準となって像が見え、倒立しているとか、時計回りに何度回転したなどと表現することになります。
 目に注目した場合は最初笑った顔のように見えても、逆側から見れば笑い顔に見えることが感じられるのですが、口に注目した場合は別の見え方が起きてきません。
 口に注目するとイメージの中で自分の顔を画像の向きに合わせやすくなるためです。
 


判断により見方が変わる

2006-05-05 21:39:17 | 視角と判断

 図はヴェルトハイマーの輪の実験図形です。
 aでは白い背景の前にある半分の輪のほうが、黒い背景の前にある半分の輪よりも濃く見えますが、二つは同じ濃さの灰色です。
 いわゆる明度対比というもので、より明るい背景の前にあれば濃く見え、より暗い背景の前ではより明るく見えます。
 つまり色の濃さの違いがハッキリ分かるように見えれば、輪郭がハッキリするので、物の形がつかみやすいように目は出来ているということです。

 ところがb図のように輪がつながると、明るさの対比があまり起きないで、輪はほぼ同じ明るさに見えます。
 二つの輪がつながっているのではなく、ひとつのドーナツ型の図形だと思ってみてしまうので、明るさが同じに見えてしまうのだというふうに説明されています。
 つまり同じ濃さに見えれば一つのまとまった形に見えるので、同じ濃さに見えてくるのだというわけです。
 a図の場合のように自然に見た場合は明度対比効果が感じられるのに対し、b図のようにドーナツ型であるという知識が入ると見え方が違ってくるというわけで、どちらも環境に適応した見方であるとされています。

 このような説明は間違いというのではありませんが、目的論的な説明で、いわゆる文学的な説明のようなものです。
 実際はa図を見るときと、b図を見るときとでは眼の動かし方が違っていて、同じ条件では見ていません。
  a図の場合に明度対比がハッキリ感じられるというのは、見るときに視線を動かすためです。
 白い背景で半分の輪を見て、つぎに黒い背景でもう一つの半分の輪を見るという具合に視線を動かしています。
 ところがb図の輪を見るときは、一つのドーナツ型としてみるので視線を動かさずに見ているのです。
 b図の場合でも白い背景のほうに視線を向ければ半分の輪は濃く見え、つぎに黒い背景のほうに視線を向ければ半分の輪は薄く見えます。
 視線を動かしていると、ドーナツ型は濃い半輪と薄い半輪に分けられているように見える瞬間が出てきます。
 
 a図の場合であっても左右の輪の接触部分に注意を向け、視線を動かさなければ二つの半分の輪は同じ色に見えてきます。
 図形は少しずれてはいるけれども一つの図形に見えてきて、色の濃さは同じに見えてくるのです。
 つまり、視線を動かすかどうかによって見え方が変わるということなのです。
 二つのものとして見るか、一つのものとして見るかによって見え方が違うということではあるのですが、それは結果であって、本当は見方が変わるから見え方が変るということなのです。
 知識や判断によって見え方が変わるというような説明は、人の気を引くのですが、見方が変わるから見え方が変わると考えるべきなのです。


別の角度から見るイメージ

2006-05-04 23:01:05 | 視角と判断

 文字の向きが変わっていても、活字の場合はすぐに読めるのですが、手書きになっていたりすると極端に読みにくくなります。
 記憶されている文字の形のイメージが楷書の活字体のため、そのイメージから離れた手書き文字になると、記憶されているイメージと結びつきにくいからです。
 図のaは横書きのカタカナを時計方向に90度回転させたものですが、反転文字ではないので、活字であればすぐ読めるものです。
 図bはローマ字を時計反対方向に90度回転したもの、cはカタカナを180度回転したものです。
 これらはいずれも、手書きであるためすぐには判読しにくいでしょう。
 
 しかし、aは左の方向から、bは右側の方向から見るイメージで見れば読み取ることが出来ます。
 aの場合であれば頭を右のほうに傾け、bの場合であれば頭を左に傾ければ楽に読めますが、アタマを実際に傾けなくても傾けたようなイメージで見れば楽に読み取ることが出来ます。
 cの場合は実際にアタマを逆さまにすることが出来ないので、体が反対側兄いったようなイメージで見ることが出来れば、文字内容は楽に見取ること出来ます。

 右側は一番上のRという文字と同じものはどれかということを答える問題ですが、それぞれ回転しているので、すぐには判断できません。
 それぞれのイメージを頭の中で回転させてみて、上の文字のイメージと一致するかどうかを比べればよいのですが、回転角度がおおきいとイメージの保持が難しくなり、間違えやすくなります。
 ところが、イメージを頭の中で回転するのでなく、体のほうが動いて文字の正面にまわったイメージで見ればもとのイメージと一致するかどうかはすぐに分かります。
 イメージを回転させるのではなく、自分の体が動いて文字の正面に向かったというイメージを持ってみれば、どれが正しいかは直ちに分かるのです。

 江戸時代の寺子屋の支障は教え子と向かい合って個別指導をしたので、たとえば本を読ませる場合でも前から字突き棒で文字を指したのですから、逆さまの文字を読み取れたわけです。
 文字は楷書体でなく、草書体が主だったので、読みにくかったでしょうから、向かい合った相手側にいるようなイメージで文字を読み、読む文字を指していたものと思われます。
 さらに字を書いて見せる場合も向かい合った位置から、相手の側から見た文字を書いて見せたのですから、自分が相手の側に回ったイメージで手本を書いて見せたもののようです。
 自分の側からの見方にばかりこだわらず、相手の側に立ってみた感覚から指導をしていたものと思われます。
 相手の側に立ってみるという方法が取り入れられていたことが伺われるのです。


説明に使う言葉選び

2006-05-03 23:12:20 | 視角と判断

 左側の図はエーデルソンが作成した錯視図で、矢印で示した二つの四辺形の色は同じです。
 上の四辺形のほうが濃く、したの四辺形のほうが薄い色に見え、とても同じ色には見えないでしょう。
 心理学の説明では、上のほうに光が当たって、下のほうは陰になっていると脳が解釈するためだとしています。
 脳がそのように解釈するのは、図が三次元的に見える形であるためで、下のほうは陰になっているので暗くなっているはずなのに送でないから、もとの色が薄いと解釈してしまうというのです。
 
 しかし、この説明は間違いです。
 図形の形が三次元的であるからといって明暗を感じるということはありません。
 明暗の差を感じる原因を三次元的な形のせいにしただけです。
 これは色の濃淡を白、黒、灰色と表現しないで、明るいとか暗いとかいう言葉を使うため、光の当たり方による錯視のように思われてしまうのです。

右の図は左の図に彩色をしたものですが、、赤の部分は同じ明るさに見えて上のほうが濃く、下のほうが薄く見えるということはありません。
 図形自体はまん中がせりあがって見えて、三次元的に見えるのですが、赤はどの位置にあっても同じ明るさに見えます。
 つまり、三次元的に見えれば脳が陰の部分が暗く見えるはずだと解釈したりしていないのです。

 それではなぜ左の図では上の四辺形のほうがしたの四辺形より黒く見えたのでしょうか。
 それは自分よりす薄い色にはさまれたときはより濃く見え、自分より濃い色にはさまれたときはより薄く見えるからです。
 つまり、上の四辺形は両サイドが自分より薄いので、より濃く見え、下の四辺形では両サイドが自分より濃いのでより薄く見えているのです。
 もし両サイドの色の濃さを同じにしたり、逆にしたりすれば見え方は違ってきますから、上のほうが濃く見えるように仕組んであるということなのです。
 一種のトリックなのですが、上下の四辺形の色の濃さを比べるとき、両サイドの色と比べることが計算に入っているのです。
 ということは上下二つの四辺形を見比べるとき、無意識に視線を動かしているのです。
 
 下のほうの四辺形の隣の黒い四辺形(B)は上下の四辺形と同じ濃さのように見えますがよく見るとより濃い色です。
 この黒い四辺形をじっと見ていると薄く見えていた左右の四辺形も同じ濃さに見えるようになります。
 ということは矢印で示した二つの四辺形の色が同じに見えているということです。
 また矢印で示した二つの四辺形の間にある正方形をじっと見ていると、濃さが違って見えていた上下の二つの四辺形が同じ濃さに見えてきます。
 これは間の正方形と上下の四辺形だけが同時に見えるようになるため、同じ濃さのものが同じ濃さに見えるということです。
 視線を動かさなければ、それぞれの両サイドの色と比較しないので色の濃さが同じに見えてくるのです。