考えるための道具箱

Thinking tool box

◎会社は学校じゃねーんだから。

2011-09-25 12:18:40 | ◎業
吉田松陰に対する玉木文之進の教育法のエピソードを端緒にした内田樹の定番の教育についての考え方。(『最終講義 生き延びるための六講』)

(……)では、いったい何を教えているのかというと「子どもには理解できないような価値が世界には存在する」ということそれ自体を教えているわけです。「お前が漢籍を学ばなければならない理由を私は知っているが、お前は知らない。」という師弟の知の非対称性そのものを叩き込んでいるわけです。(……)子どもに「手持ちの小さな知的枠組みに収まるな」ということを殴りつけて教え込んでいる。子どもに「オープンエンド」ということを教え込んでいる。それさえわかれば、あとは子ども自身が自学自習するから。

松陰は十一歳のときにはもう藩主に御前講義をするところまで知的成長を遂げるわけですけれど、学問を始めてわずか数年でそのレベルに達するというのは、勉強したコンテンツの量の問題ではありません。どれほど想定外の情報入力が流れこんできても、まるごと受け止めて、自分自身の知的スキームを組み替えることができるような恐るべき知的柔軟性を松陰が身につけていたということでしょう。

ふつうは感動が先で、それを「言葉にする」という順序でものごとが起こると思われているけれど、そうでもないんです。最初に言葉がある。その言葉が何を意味するのかよくわからないままに記憶させられる。そして、ある日その言葉に対応する意味を身体で実感することが起きる。神経衰弱のペアのカードが見つかったみたいな感じですね。たしかにその言葉を自分は知っていた。でも、ただの空疎な言葉でしかなかった。実感の裏付けがなかった。それが、ある瞬間に言葉が意味を受肉することができる。
ということを三浦(雅士)さんが書かれていました。これは玉木文之進の教育法にも通じると思うんです。まず言葉がある。「怒髪天を衝く」とか「心頭滅却すれば火もまた涼し」とかいうのは言葉だけいくら覚えても、十歳やそこらの子どもに身体実感の裏付けがあるはずがない。でも、言葉だけは覚えさせられる。それによって、自分自身の貧しい経験や身体実感では説明できないような「他者の身体」、「他者の感覚」、「他者の思念」のためのスペースが自分の中にむりやりこじ開けられる。そして、成長してゆくうちに、その「スペース」にひとつずつ自分自身の生々しい身体実感、自分の血と汗がしみこんだ思いが堆積してゆく。


おれはかねがね「会社は学校じゃねーんだから」と嘆いているわけだが、そこには2つの切望がある。ひとつは、目的への因果がないところで個人を縛るなってことであり、だから縛られることに身をゆだねるな、縛られることを期待するなって話。もうひとつは、仕事は正解が用意されているカリキュラムじゃないんだから、自分で正解の土俵を作れ、ってこと。
いずれの願いも、つまりは、オープンエンド(解が複数あり,多様な考え方ができる)なんだから自分の頭と身体で底まで考えてデシジョンできる技能を習得してください、ってことなんだけれど、なぜこれが「学校じゃねー」かというと、やっぱり学校教育というものが、そういった鍛錬とは真逆のところにあるという偏見に囚われているからなんだろう。
しかし、言うまでもなく、その思いこみは、本質的に正しい教育に対する大いなる誤解である。正しい学校教育は、仕事にも益する。

内田樹は、規格化・標準化をめざす功利的なものは正しい教育ではないと伝導し続けていて、一読すると「仕事に役立つような学校教育はろくなものではない」とも読める。というか、具体的にそのような提言をしている。しかし誤解してはならない。彼の意見は、あくまでも「仕事に“役立つように計算された見通しの明解な”学校教育はろくなものではない」ということであり、仕事に役立つことを否定しているわけではない。

これは、目的が明示的なものは教育ではない、ということであり、裏返せば「目的を考える力をつける」ことが教育であるということだ。もう少し突っ込んで「さまざまな関係性(無論、他者との関係)において合意を目指す目的(ビジョン)を設定し、伝達できる力をつける」ことが教育である、というところまで解釈を広げたい。

目的とかビジョンなんて書くと話が大きくみえるが、毎日の仕事は、小さい目的の提示と実行の繰り返しだ。正しい目的が設定できれば、つまり正しい問いをたてることができれば、会議も、打ち合わせも、企画も、プレゼンテーションも、交渉もうまくいく。少なくともそんなに間違ったところには落ちない。おれが「会社は学校じゃねーんだから」という言葉を借りて言いたかったのは、きっとこういうことなんだろう。

ただ、これが「目的合理主義とはちょっと違うんだよなあ……」、ということを説明するためには、もう少し言葉が必要だ。他己的に自律的に目的が考えられたらあとは非合理だってなんだっていい自分にフィットするやり方で自由にやっていいよ、ってことなんだけど、そんな話になってないよなあ。

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