ちょうど、「二項対立」という考え方について、自分なりの思考ストーリーを固めておいたほうが良さそうだなあ、と気になっていたところに、 仲正昌樹の『「分かりやすさ」の罠 ―アイロニカルな批評宣言 』が発刊された。
「ちょうど、気になっていた」というのは、保坂和志の考え方に触れたことによる。ぼく自身の基本にある考え方は、「二項対立で片付けるな」というところなのだけれど、ほんとうにそれでいいのか、といわれると自信をもって答えることができない。「世の中のできごとはそんなにわかりやすく答えがでるものではない」という考え方と、それとは逆の「知識と論理が浅く、ほんとうはでるはずの答えがだせない」が相克してるというわけだ。
その考えの足しになったのが『途方に暮れて、人生論』のなかの「善と悪の差は本当にあるのか?」というエッセイである。『途方に暮れて、人生論』は、保坂和志にしては珍しく現在批評風になっていて(もちろん、これまでどおり周縁への許容が前提)しかも、まるで内田樹かと見紛わんばかりにわかりやすい箴言的なるものを連発している。たとえば「カネのサイクルの外へ!!」なんてはのその最たるもので、カネのある人が、カネで買えないものはない、という言説を批判する際にとるべき行動について、成長経済サイクルからの離脱するカネの使い方を提起するなど、まさに、現在らしい。同じような思考法で、「善と悪の差は本当にあるのか?」も進むわけだが、保坂が幼い頃から、疑念を持ちごく最近まで解消することのなかった「善人と悪人の違い」--つまり双方に特定の信念がある以上は、どちらも差がないのではないかという迷いに、ようやく終止符が打てたという話である。
手元に本がないので正確には引用できないが、そこで保坂が提示した考えというのは「善はすべての人の幸せを考えるのに対し、悪は自分の幸せしか考えない」というきわめて拍子抜けするようなものである。しかし、いろいろなものにあてはめて考えると、かなり妥当性は高いことがわかる。あまりにシンプルすぎるため、疑いの目は必要だが、「世の中の事象は安易には二分化できないというその気持ちはわかるけれど、じゃあどのような立ち位置にいればいいの?」いった素朴な問いかけによる思考停止状態への、少しの風穴にはなる。この保坂の考えにより、場合によっては(考えつくせば)善悪の超越的基準というものがあるかもしれない、と靡いた。
そんなこともあって、善悪に限ってではあるけれど、二項対立が「ちょうど、気になっていた」ところの仲正である。とはいえ、いまは第一章の「二項対立」を読んでいるだけなので、もちろん、「二項対立は分かりやすさの罠のひとつである」という話にはなっているのだが、それが、全体テーマのなかので、全体なのか一部なのかはよくわからない。『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』以来、いつもにも増して怒りすぎている仲正の本を読む機会がなかったのだが、『「分かりやすさ」の罠』は、わりあいに淡々と論をすすめており、気持ちのいい斬り方も認められるので(じつは、この本は「わかりやすい」んだけれど、そんなこと言うと、きっとまた怒られるね)、「二項対立」という腑分け方への情報をもう少しため込んでいく。
「ちょうど、気になっていた」というのは、保坂和志の考え方に触れたことによる。ぼく自身の基本にある考え方は、「二項対立で片付けるな」というところなのだけれど、ほんとうにそれでいいのか、といわれると自信をもって答えることができない。「世の中のできごとはそんなにわかりやすく答えがでるものではない」という考え方と、それとは逆の「知識と論理が浅く、ほんとうはでるはずの答えがだせない」が相克してるというわけだ。
その考えの足しになったのが『途方に暮れて、人生論』のなかの「善と悪の差は本当にあるのか?」というエッセイである。『途方に暮れて、人生論』は、保坂和志にしては珍しく現在批評風になっていて(もちろん、これまでどおり周縁への許容が前提)しかも、まるで内田樹かと見紛わんばかりにわかりやすい箴言的なるものを連発している。たとえば「カネのサイクルの外へ!!」なんてはのその最たるもので、カネのある人が、カネで買えないものはない、という言説を批判する際にとるべき行動について、成長経済サイクルからの離脱するカネの使い方を提起するなど、まさに、現在らしい。同じような思考法で、「善と悪の差は本当にあるのか?」も進むわけだが、保坂が幼い頃から、疑念を持ちごく最近まで解消することのなかった「善人と悪人の違い」--つまり双方に特定の信念がある以上は、どちらも差がないのではないかという迷いに、ようやく終止符が打てたという話である。
手元に本がないので正確には引用できないが、そこで保坂が提示した考えというのは「善はすべての人の幸せを考えるのに対し、悪は自分の幸せしか考えない」というきわめて拍子抜けするようなものである。しかし、いろいろなものにあてはめて考えると、かなり妥当性は高いことがわかる。あまりにシンプルすぎるため、疑いの目は必要だが、「世の中の事象は安易には二分化できないというその気持ちはわかるけれど、じゃあどのような立ち位置にいればいいの?」いった素朴な問いかけによる思考停止状態への、少しの風穴にはなる。この保坂の考えにより、場合によっては(考えつくせば)善悪の超越的基準というものがあるかもしれない、と靡いた。
そんなこともあって、善悪に限ってではあるけれど、二項対立が「ちょうど、気になっていた」ところの仲正である。とはいえ、いまは第一章の「二項対立」を読んでいるだけなので、もちろん、「二項対立は分かりやすさの罠のひとつである」という話にはなっているのだが、それが、全体テーマのなかので、全体なのか一部なのかはよくわからない。『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』以来、いつもにも増して怒りすぎている仲正の本を読む機会がなかったのだが、『「分かりやすさ」の罠』は、わりあいに淡々と論をすすめており、気持ちのいい斬り方も認められるので(じつは、この本は「わかりやすい」んだけれど、そんなこと言うと、きっとまた怒られるね)、「二項対立」という腑分け方への情報をもう少しため込んでいく。