考えるための道具箱

Thinking tool box

柴崎友香。

2006-05-07 16:47:02 | ◎読
柴崎友香は、言葉をひとつひとつかなり丁寧に書きつけている。ようやくわかったのだけれど、これが彼女のよいところだ。もちろん、よりほんとうらしい描写、空間展開というのは柴崎の持ち味なんだけれど、その大きな前提として、丁寧な書きつけがある、ということだ。

これにより、ふだんのフルタイム・ワーク・ライフのささやなか一側面がきわめてゆったりと味わい深く描写され、ともすれば、自分自身ですら「まったく同じくだらないことの繰り返しです」といってしまいそうな毎日の些事が脚光を浴びる。同じような毎日であったとしても、しっかり耳と目を研ぎ澄まして外と他者からの音とかすかな動きの変化を捉え、そのことを楽しむ回路さえ持つことができれば、日々の暮らしはここまで豊かになる。

『フルタイムライフ』は、芸大出身でありながらも、意に反して、というかたぶんさほど大きなこだわりもなく、梱包機器メーカーの総務事務という職を選んだ主人公の新入社員としての10ヶ月(※)の1年間を描いた小説だが、そんなことだから、会社というもの、上司、同僚というものの固有性がその1年間のなかで徐々に認識されていき、その「認識されていく加減」とか、それだけでなく会社というものにつきものの、登場しすぐに退場していくためすぐに忘れてしまうような人と出来事の「消失の加減」などさえも、1年という時間軸のなかに、的確に配置されている。はじめは名まえと顔も一致しなかった別の部署の上役のことが、だんだんわかってきたり、初めての来客応対に気合いがはいるものの、終わってしまえばもうそのことをしばらく思いだすこともない、といったようなことだ。
「あの人のことがだんだんわかってきた加減」といったことは、振り返って思い出して書き込もうとすると、じつはかなり難しく、虚構のなかでは「ようやくわかってきた」みたいな直接的な力技を使ってしまうこともありがちだ。そういった小技、つまりメタ的な記述をいっさい使わず、時間の経過と蓄積を、主体が話しえる書きえる言葉だけをていねいに積みあげていくことで体感させてしまうところは凡百の才能ではないと思える。

このこと同様に、物語内で起こっているすべてのことは、「解説語」を使ってしまえばすべからく解説可能なのだが、柴崎は解説しない。これは『フルタイムライフ』において勤務時間外ライフのなかでおこる恋愛的出来事の描写にも現れていて、「あっ」と思ったあとなんとなくじわりと結晶化していく感情や、「えっ」という間に終わってしまう二人の関係の本質的なあっけなさみたいなものを、しょうもない心理描写を最小限に押さえ、空間軸と時間軸でうまく表現している。

こういった日常・恋愛小説はともすれば、うまい日記として終わってしまうことが多いのだけれど、そうはならないのは、つまり、ごく普通の日常を描くことが小説たりえているのは、きっと余計な言葉がそぎ落とされているからだろう。よくよく読んでみるとムダな言葉がほとんどない。これは、計算されたものなのか本能的なものなのかはよくわからない。しかし、たんなる描写だけであれば、話はここまで「面白く」読み進めることはできない。事物・事柄の描写を正しく行おうとしたとき、自覚的でないかぎり冗長に余計な言葉を費やしてしまい、表現上のつやみたいなものをくすませてしまうことや、それだけでなく、読み難くなってしまうなんていうのはよくあることだ。最小限の言葉と最小限の語彙で状況を立ち上げさせる柴崎のフィルター、丁寧なろ過機能のあるフィルターはたいしたものだと言わざるをえない。

と、ここまで感じるままに柴崎の小説の魅力みたいなものを書いてみたが、どうもうまく表現できていない。なんというかこんなふうに漢字をたくさん使って分析的に読む小説じゃないのだ。小説の技術というか舞台裏には実際に高いレベルの技が(もしくはモノ書きとしての本能的資質)がたくさんつまっいるのだが、そのことを表面ではいっさい感じさせない。
それどころか、ふつうの女の子の軽いつぶやきのように見せてしまう。このことの凄さをなんとかうまく表わしてみたいのだが、その力は今日の私にはない。いまのところの力の限界点が「丁寧な小説」という仮説なのだろう。

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(※)5月~2月。4月~3月でないのは連載の関係ということかもしれないが、少なくとも5月から始めようと考えた切り出し方をしているところはやはり計算づくということだろうか。