(妙顕寺つづき)
妙顕寺墓地で藤井勘七の墓を探した。藤井家の墓はいくつか見つけたが、藤井勘七のものと特定できる墓石はなかった。
藤井勘七は、天保十三年(1842)の生まれ。諱は永尚。通称は熊次郎といった。藤井家は、京都三条烏丸に店を構え、禁裏御用呉服司に呉服物を納入した御用商人七家のうちの一つである。管理奉行は中世末より内蔵寮の山科家で、孝明天皇・明治天皇の儀式の時に主に女官用呉服類を調進し、その余暇に京中で高級呉服の販売も行っていた。元治元年(1864)七月の禁門の変に御所の女官たちが比叡山に避難したとき、足袋三十足の火急の注文があり、戦火の中を届けた。この変で屋敷も火災に遭ったが、直ちに復興した。東京遷都後、二男が宮中の御用を勤めたが、洋装化の風潮と三越らの新興勢力に押されて次第に衰微し、京都店も同時に衰えた。明治四十二年(1909)、年六十八にて没。法名「永遠院尚道日雅信士」。
(妙蓮寺)
堀川通りの西側に妙蓮寺の広い境内がある。墓地には赤穂浪士四十六名の遺髪墓がある。切腹した四十六名の遺髪を同志であった寺坂吉右衛門が赤穂城下へ持ち帰る途中、京都伏見に住む片岡源五右衛門の姉宅に立寄り、遺髪を託した。主君の三回忌にあたる元禄十七年(1704)、この姉が施主となり菩提寺である妙蓮寺に墓を建立して遺髪を納めた。以降、三百年の風雪により損傷甚だしいため、近年再建されたものが現在の墓石である。
妙蓮寺
赤穂浪士遺髪墓
帝室技藝員幸野楳嶺埋骨處
妙蓮寺墓地には日本画家幸野楳嶺(こうのばいれい)の墓がある。
幸野楳嶺は弘化元年(1844)、京都新町四条の生まれ。九歳で中島来章(円山応瑞門)に学ぶ。二十四歳のとき、父方の幸野家を再興した。明治四年(1871)、塩川文麟に師事。明治十一年(1878)、同志と京都府立画学校設立を建議し、明治十三年(1880)、開校すると副教員となった。明治十五年(1882)、第一回内国絵画共進会審査員、同絵事功労賞、同著述賞受賞、同二回展銀印。次々と画塾を開設し子弟を要請した。門下に竹内栖鳳、菊池芳文、川合玉堂、都路華香、上村松園らがある。明治二十五年(1892)、シカゴ万国博覧会に「秋日田家」を出品。明治二十六年(1893)、帝室技藝員になった。明治二十八年(1895)、年五十二で没。
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