嘉永六年(1853)六月のペリー来航は、日本史の画期となる事件であった。その時、老中首座(現代風にいえば内閣総理大臣)という地位にあって難局に当たったのが本書の主人公阿部正弘である。
正弘については、ペリー来航時に幕府がその事情を朝廷に報告し、かつ全大名にアメリカ大統領の親書を示し、意見を求めた。福地桜痴(源一郎)はこれで幕府の倒壊が早まったと明確に正弘を批判している。
一方で、正弘がもっと長生きしていれば、幕府の倒壊はなかったという説もある。阿部は安政四年(1857)に三十九歳(満三十七歳)で病死したが、彼がもっと長く生きていれば幕府と薩摩が敵対することもなく、幕府の倒壊も避けられたのではないかというのである。
いずれにせよ、正弘はこの時期の幕府の鍵を握る存在であったことは間違いない。これまであまり阿部正弘というキーパーソンの事績を詳しく論じた本を読んだことがなかったので、非常に興味深く読み進めることができた。
そもそも阿部正弘はどのような思想をもった政治家だったのだろう。有名な人物でありながら、案外我々はこの人物について良く知らないのである。
阿部正弘は開国派だったのか。鎖国派だったのか。旧幕臣の大久保忠寛(一翁)は「ペリー来航の時点で開国論を唱えていた老中は、正弘と松平忠優(忠固)であった(明治二十一年(1888))」と語っている。しかし、本書によれば、当時の史料からわかるのは鎖国祖法の維持に苦慮し、日米和親条約締結後は鎖国の立て直しを目指している正弘の姿である。正弘が鎖国祖法の限界を認識するようになったのは、安政二年(1855)末頃である。
正弘は天保十一年(1840)、二十二歳の若さで寺社奉行に就いた。寺社奉行というのは、勘定奉行、江戸町奉行と並ぶ三奉行の一つ。三奉行の中でも最上位にあたる。二十二歳での就任は、それ以前の寺社奉行の中ではもっとも若いという。
寺社奉行であった天保十二年(1841)、正弘のその後のキャリアにも影響を与えた「中山法華寺一件」と呼ばれる大事件が発生した。阿部は前将軍家斉、現将軍家慶の権威を守りつつ、女性と密通した日啓という問題人物を排除するという形で決着をつけた。この事件の処理で正弘は株を上げた。将軍の信任を得たことで、それまでの歴代老中の中でも最も若い年齢(二十五歳)での老中就任へと繋がった。正弘が老中に就任した直後、天保の改革を推進した水野忠邦が罷免された。従って、この時正弘が同僚として水野と顔を合わせることはなかった。
その後、弘化元年(1844)、水野忠邦が再び老中に任じられると、忠邦の登用に反対した正弘は登城をボイコット。登城を再開した正弘は、牧野忠雅と連携し、水野と水野一派(その代表格が鳥居忠耀であった)の排除に動いた。翌年二月、水野忠邦が辞任すると、その翌月正弘はついに老中首座となった。
水野忠邦の強権的な政治を間近に見ていた正弘は、合議を経て慎重に判断を下すという手法に徹した。彼のこの政治手法は生涯を通じて一貫している。のちにペリー来航時に全大名に諮問した政治手法もこの延長線上にあると言って良いだろう。
阿部正弘は島津斉彬や伊達宗城、松平春嶽といった開明的大名と親交を結んでいた。その事実だけを切り取ると、彼自身も開明的な思想を持っていたようなイメージがあるが、本書を読む限り、思想的にはどちらかというと保守的である。
弘化年間、異国船が日本近海に出没するようになると、正弘は無二念打払令の復活を画策した。そういう意味では正弘は、思想的にはむしろ徳川斉昭に近い。正弘は一貫して斉昭を政権に取り込もうと意を砕いているが、政治的に保守派、攘夷派に配慮したという側面もあるかもしれないが、心情的に斉昭の考えに同調していたのである。とはいえ、斉昭がヒステリックに主張するような「何が何でも夷人を打ち払え」という極端な攘夷ではなく、その点ではバランスの取れた思想を有していた。時代が下るにつれ、斉昭とは距離を置くようになっていったのである。
正弘は本音では打払令を即刻復活させたかったようだが、決して我を押し通そうということはしない。何度も評定所一座、勘定方や海防掛の意見を聴取し、彼らのコンセンサスを得るように努め、最終的には合意が得られないと見ると、穏健な外国船対応に落ち着いた。この辺りが「現実的政治家」である阿部正弘の真骨頂であり、決して無茶苦茶をしないという意味で長期に渡って多くの関係者の支持を得られた理由であろう。
「現実的政治家」としての正弘の本領が現れたのが安政年間、ペリー来航後の対応である。対外的強硬策の限界を認識した正弘は突如老中首座を退き、その立場を「蘭癖」「西洋かぶれ」とも称される開明派の堀田正睦に引き継いだ。この交代劇は外交方針の転換という意味合いが強い。この時点で正弘は外国との通信・通商は避けられないことを悟ったのだろう。こういった時勢を感知する能力、時勢に応じて対応を変える柔軟性が、阿部正弘という政治家の最大の特徴である。人間は己の思想信条とかイデオロギーからなかなか脱却できないものである。正弘は、いとも簡単に思想的な転換を見せる。
安政四年(1857)、正弘は満年齢で三十七歳という若さで死を迎える。舟橋聖一は「花の生涯」で正弘の死因を「腎虚」としているが、実際に「やり過ぎ」で命を落とすことはないのではないか。状況から見て肝臓癌で亡くなったとするのが自然である。
もともとお酒が好きだった上にストレスも加わり酒量は相当増えていた。ペリー来航という難局を老中首座として対応したその心労は、想像を絶するものがあったと思われる。幕末の動乱が本格化する前に退場してしまったために阿部正弘の評価は必ずしも高くないが、実は非常に重要な役回りを果たした人物なのである。