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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末の先覚者 赤松小三郎」 安藤優一郎著 平凡社新書

2023年02月25日 | 書評

「プロローグ」によれば、「知られざる幕末の先覚者である上田藩士赤松小三郎の生涯を通じて、歴史教科書には記述されていない幕末史を描き出す」ことが本書の主旨となっている。個人的には、京都金戒光明寺の赤松小三郎の墓や長野県上田市月窓寺の遺髪墓も掃苔したし、過去には上田高校同窓会の主催した赤松小三郎に関する講演会に参加したこともある。本書でも引用されている「日本を開国させた男、松平忠固」(関良基著)や「薩摩の密偵 桐野利秋」(桐野作人著)なども読んでいたし、比較的馴染の深い人物である。「知られざる」という謳い文句には多少ひっかかったが、赤松小三郎の生涯を丹念に追っており、あまり触れられることがない前半生も紹介されている。激動の幕末において自分の才覚を信じ、活躍を夢見ながら非業の死に倒れた一人の若者の生涯に改めて感銘を受けた。

赤松小三郎は天保二年(1831)、上田藩の下級武士芦田家の次男として生まれた。実家芦田家も養子に入った赤松家も家禄はわずか10石余に過ぎなかった。

学問で身を立てようとした小三郎は勉学に励み、やがて藩から認められて江戸で学ぶ機会を得た。当初は和算家で幕臣の内田五観の塾で数学のほか蘭学を学び、ここでオランダ語の読み書きを習得した。さらに下曽根信教(金三郎)の塾で西洋の兵学にも通じた。江戸遊学中には勝海舟の塾にも入門し、その縁で長崎海軍伝習所において員外聴講生として伝習を許された。

海軍伝習所が閉鎖され、小三郎が江戸に戻った頃、遣米使節団が派遣されることになった。小三郎はその選に漏れたが、同じく藩士身分でありながら福沢諭吉はチャンスを活かし、渡米に成功した。福沢諭吉は文久年間に欧州へも渡り見聞を広めた。

小三郎は上田藩の軍制改革に取り組み、藩士に洋式調練を指導し、最新兵器の購入などに当たった。文久三年(1863)には藩当局に対し現状を憂える意見書を提出している。

長州藩を追討するため征長軍が組織されることになり、上田藩にも動員がかかった。小三郎はその準備にあたるため開港地横浜で武器弾薬の調達に奔走したが、そこで知り合ったイギリス公使館付の武官アブリンを通じて英語や英式兵制を学んだ。福沢のように洋行経験のなかった小三郎にとって、イギリス軍人と直接話す機会を持てたことは非常に貴重な経験となった。

この頃になるとイギリスが世界の覇権を握る強国であることが知れ渡り、英式兵制を導入する藩が多くなっていた。小三郎は、師匠である下曽根信教の依頼を受けてイギリス陸軍の「歩兵操典」を翻訳し、慶応二年(1866)三月、「英国歩兵操典」(五編八冊)を刊行した。兵学者小三郎の名は一躍諸藩に知られることになる。

幕府の長州再征が敗色濃厚となったことを受け、小三郎は幕府と上田藩に破格の改正を求める建白書を提出した。彼は、富国強兵のため家格や禄高に縛られない能力に応じた人材の登用を訴えた。自分を抜擢せよ、という強烈な自負の裏返しであった。

小三郎は、京都で兵学塾を開くかたわら、他藩の依頼に応じて英式兵制に基づく調練を指導した。英式兵制で軍事力強化をはかっていた薩摩藩も小三郎に注目し、兵学塾の出講、調練の指導を依頼した。

英式兵制に通じた兵学者赤松小三郎に幕府も注目し、幕府から出仕要請があった。それは小三郎自身の希望とも合致したが、上田藩は固辞した。上田藩は帰国を求めたが小三郎は痔の治療と称して滞京を続けた。

慶應三年(1867)五月にかけて京都では薩摩藩の主導により四侯会議が開かれた。小三郎はこれを機に島津久光、松平春嶽に対し、議会制度の導入により公議・公論を国政に反映させる「公議政体案」を建白した。小三郎は自分の構想が慶喜や四侯の間で議論され、議会制度への道筋が開かれることを望んだが、目論見通りには行かなかった。

小三郎の建白は多岐にわたっている。第一条は、日本が目指すべき議会制度に関する提案。第二条は人材育成に関するもので主要都市や開港地に大小学校を創設することを提案している。第三条は課税の平等性に関するもので、農民の年貢を減らして、従来無課税であった武士や商人にも課税することを説いている。第四条は世界に通用する貨幣制度の導入。第五条は陸海軍の整備。第六条はお雇い外国人による殖産興業。第七条は畜産業の振興と肉食への移行。そして最後に改革を担保するためのものとして、世界に通用する「国律」つまり憲法の制定を求めている。

洋行の経験のない小三郎がこれだけの提案をなし得たのは、慶応二年(1866)に福沢諭吉の「西洋事情」が刊行されベストセラーとなっており、当然ながら小三郎もこれを読んでいただろう。「西洋事情」から知識を仕入れたという部分は大きいにせよ、西洋の進んだ科学技術を取り入れようというだけではなく、小三郎はその背景にある文明を支える国の仕組み、つまり西欧文明の本質を把握していた。それが議会制度であり、教育制度、課税制度、通貨制度、憲法であった。小三郎の提言というと、慶応三年(1867)の時点で二院制議会制度を提言した点に注目されがちであるが、彼の慧眼は西欧文明の本質を見抜いていたところにあるというべきである。

四侯会議が空中分解すると、慶喜と薩摩の蜜月期間も終わりを迎える。幕府と薩摩の良好な関係が続いていれば、薩摩藩にも会津藩にも要請があれば調練に出向く小三郎の姿勢は問題にならなかっただろう。

しかし、武力倒幕に舵を切った薩摩藩にとって、軍事機密を握る小三郎が幕府や会津とも接点を持つことが大きなリスクになっていた。事実、会津藩は小三郎から薩摩の内情を聞き出すことを期待していた。小三郎が藩からの命令に抗し切れずに帰国を決意すると、薩摩藩はその直前の慶應三年(1867)九月三日、攘夷の志士による天誅に偽装して小三郎を暗殺した。三十七歳という若さであった。

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「幕末の漂流者・庄蔵 二つの故郷」 岩岡中正著 弦書房

2023年02月25日 | 書評

幕末の漂流者というと土佐のジョン万次郎やジョゼフ彦が有名であるが、本書で紹介されている庄蔵(原田庄蔵)の事歴も彼らに負けないくらい劇的である。

庄蔵は、天保五年(1834)に自らが船頭を務める船で天草から長崎に向かう途中、嵐に遭遇して漂流し、ルソン島(現・フィリピン)に漂着した。ここで現地の人間に襲われたり、まさに九死に一生を得る思いをしながら天保八年(1838)マカオに移り、ここで漂流してアメリカ船に救助された音吉らと出会う。彼ら総員7名は、同年7月、帰国するためアメリカ商船モリソン号で日本に向かったが、異国船打払令によって砲撃を受ける。この時の庄蔵らの悲しみ、衝撃は想像に余りある。

続いて薩摩でも上陸を試みるが、この地でもやはり砲撃を受け、彼らは失意のうちにマカオに戻ることになった。

この時、庄蔵は「日本には再びかへらぬと定め我共其かわりに」漂流日本人について「身を粉にしても世話」することを決心したと日本に送られた手紙に書いている。想像するに帰国を諦めたのと、自分と同じような境遇の日本人の帰国支援をしようと決めたのは時間的なギャップがあったのではないだろうか。帰国しないことは母国から砲撃されるという仕打ちを受けたときに腹を固めたのだろう。

同じく手記によればモリソン号で撃退されたときのことを「我々共七人のものせつなさかなしさ誠に云ふ計りなくすでにしがひ(自害)を致す筈に相極め候へば天を念じ仏神念じ必ず必ずあやまるな」と記し、薩摩で砲撃を受けたことについても「数十挺石火矢時の声を上打出に相成誠に我々はたましいを飛し身躰もかなはぬゆへ夢如くに相成候へば」と記述している。

筆者は、「まるで軍記物を語る講談師のような緊張感のあるリズムで文章を表現する力と冷静さは驚くほど」と解説を加えているが、この人の文章力・表現力は天性の頭の良さと故郷肥後川尻で培われた教養に裏打ちされたものであろう。

本書には、故郷に宛てた手紙(これは江戸時代の漂流者の中で唯一の自筆書簡であり、しかも故郷の家族に届いた唯一の例)の全文が掲載されている。現代人が読んでも訥々として心を動かされる名文である。庄蔵と一緒に漂流しモリソン号にも乗り合わせた寿三郎は全文カタカナで書いている。内容はほぼ同じだが、それぞれ個性がにじみ出ている。

庄蔵の文章力・表現力は、米国宣教師ウィリアムズ(のちにペリーの来日に同行し日本語公式通訳を務めた人)を手伝って聖書「マタイ伝」の邦訳に活かされた。「わしチャラメラを吹いてもおまえたち踊らぬ」とか「これどの人でも刀を用いるは刀の歯糞(はぐそ)になる」「そういたさるならば天の国に汝らの褒美甚だたんとあり」「汝らは娑婆の光なり」といった平易で明快にしてどこかユーモアも含んだ表現は、庄蔵の理解力、語彙力、人間性まで映して秀逸なものである。

日本に帰国できないことを絶望し、孤独に打ちひしがれた寿三郎は阿片におぼれて亡くなり、一方庄蔵は香港に移住してアメリカからきた女性を妻として家族をもった。洗濯屋仕立て屋として成功し、ゴールドラッシュにわくアメリカ・カリフォルニアに苦力(クーリー)十人を連れて渡って金採掘に携わったこともあったという。今となっては没年や墓、子孫については不明であるが、自らの境遇を受け入れたくましく自活した一人の日本人の姿が浮かび上がる。彼の生き様は、人間が生きていく上で必要な生活力とか人間力とは何かを考えるヒントになるだろう。

庄蔵には漂流した時点で妻と三人の子がいた。当時五歳だった長女ニヲは、長じて岩岡伍三郎を養子に迎え、原田家を継いだ。筆者岩岡中正氏(熊本大学名誉教授・法学博士)はその四代の末裔である。先祖に対する尊敬と愛情、そして故郷川尻への厚い思い入れも感じられる本書は、読み応えのある快作だと思う。

 

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