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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「西郷と大久保 二人に愛された男 村田新八」 桐野作人 則村一 卯月かいな著 洋泉社

2018年02月23日 | 書評
村田新八というと、「大久保に次ぐ人傑」(勝海舟)と評され、西郷隆盛、大久保利通という両雄から信頼されたという逸材である。
天保七年(1836)西郷と同じ下加治屋町に生まれ、文久二年(1862)、西郷とともに大阪に入ったが、下関で待機せよという久光の命に反したため強制的に帰藩させられた。西郷が徳之島(最終的には沖永良部島)に流され、新八は喜界島に流された。元治元年(1864)、赦されて鹿児島に戻ると西郷とともに直ちに上京を命じられ、禁門の変でも活躍した。その後は薩長両藩の周旋に奔走し、慶応二年(1865)の薩長同盟成立にも立ち会っている。その後、有名な坂本龍馬の朱筆裏書のある書簡を長州に届けた。戊辰戦争でも各地を転戦した。明治四年(1871)、宮内大丞に任じられたが、そのわずか三か月後、岩倉使節団の一員として欧米に渡った。しかし同年十月、現地で辞表を提出し自費留学に切り替え、そのまま明治六年(1873)十一月まで欧州にとどまった。帰国して政変を知ると、新八は西郷を追って鹿児島に向かう。鹿児島では私学校の幹部となり、砲隊学校の責任者となった。そして西南戦争では二番大隊長として出陣。薩軍幹部として田原坂、熊本、高瀬、人吉、宮崎、延岡と転戦したが、西郷、桐野利秋らとともに城山の露と消えた。享年四十二。
この程度の事績は分かっていたつもりであったが、本書を読んで改めて村田新八のことは分かっていなかったことが分かった。更にいえば、本書を読み終わって、益々もってこの人物のことは分からないことが多いということも分かった。
まず、生誕地について。鹿児島市の加治屋町を歩いていると鹿児島中央高校の一角に「村田新八誕生之地」と記された石碑があるので、当たり前のようにここが生地だと信じていたが、本書によれば、このほかに高見馬場説と西田説があり、いずれも決定的な証拠はないようである。
戊辰戦争でも活躍したものと思っていたが、本書によれば慶應三年(1867)十二月、王政復古の大号令の直後という時期になるが、京都で会津藩士と斬り合いとなり、新八は負傷している。傷の程度は不明であるが、どうやら軽傷ではなかったようで、戊辰戦争において前線で指揮をとることができなかった可能性がある。
新八の残した文書は、喜界島に流された折の「宇留満乃日記」とわずかな書簡しかなく、その中に彼の思想信条や政治的主張が現れているものは非常に少ない。
たとえば岩倉使節団に従って欧米視察をし、フランスに留まって留学した結果、新八がそこで何を学んだのか。どのような思想を身に付けたのか。西欧の文化に圧倒され、日本も近代化を急がなくてはいけないと思ったのか。はたまた嫌悪感を抱いたのか、その辺りは謎なのである。ただ欧米から手風琴(今でいうアコーディオン)を持ち帰ったことは事実であり、彼が西欧の音楽に惹かれたというのはその通りだったのであろう。
帰国後、新八は西郷を追うように鹿児島に向かい、そのまま西郷に殉じることになった。よく「道理より情義をとった」「そのまま東京にとどまって政府の高官になることより、西郷のそばで支えることを選んだ」されるが、これも本当の心情は良く分からない。従兄弟である高橋新吉に語ったという「西郷と離るべからざる関繋」という言葉が唯一残されたヒントである。
村田新八といえば、よくテレビドラマ等で描かれるように、戦場でアコーディオンを奏でる姿が印象的である。本書によればそれも眉唾で、確かに銃弾が飛び交う中で繊細な楽器を持ち歩くというのも現実的とはいえない。ただし、ボッケモンが多い薩摩隼人の中にあって、風流人という印象を残しているのも事実であり、村田新八に惹かれる人が多い理由の一つであろう。私もその一人である。

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「幕末の海軍」 神谷大介著 吉川弘文館

2018年02月23日 | 書評
「海軍」という視点から幕末を視たユニークな一冊。概ね知ったつもりでいたが、所々知られざる海軍史が紹介されている。洋式軍艦が我が国の風景を大きく変革した経緯を知ることができる。
嘉永六年(1853)のペリー来航は、我が国に様々な分野でインパクトを与えた。政治的、思想的にはいうに及ばず、眼前に現れた巨大な蒸気船の衝撃は極めて大きかった。
幕府はその直後に軍艦の建造に手を着けた。建造された洋式帆船は「鳳凰」と命名され、安政二年(1855)には幕閣を乗せて鈴ヶ森沖から羽田沖まで航海をおこなった。結果的には「鳳凰」は期待外れだったようであるが、この段階で幕府が自力で軍艦を建造していたという事実は注目に値する。
一方でオランダに軍艦を発注し、嘉永七年(1854)には「スンビン」(日本名「観光」)が長崎に入港した。幕府は、ペリー来航からわずか一年余り後に蒸気を動力とする軍艦を手に入れていたのである。
軍艦を購入したのは幕府だけではない。諸藩も次々に洋式軍艦を購入した。ペリー来航からわずか十五年、慶応四年(1868)までに117隻もの洋式軍艦が我が国に装備されたという。
幕府は、直ちに長崎に海軍操練所を開き、これはのちに築地の軍艦操練所へと発展した。幕府の開いた操練所は、諸藩からの藩士を受け入れて急ピッチで船員を養成したが、洋式軍艦の増加はそれ以上のペースであった。坂本龍馬が亀山社中(のちに海援隊)を創設して、薩摩藩や大洲藩等の所有する船の運航を請け負う民間組織が生まれたのも、このような背景があったのである。
洋式軍艦の導入は街の風景も変えた。横須賀には造船所、製鉄所、ドックが建造され、蒸気を動力とした洋式の機械も大量に導入された。
最も影響を受けたのが戦争であった。慶応二年(1866)の幕長戦争(四境戦争)において、特に大島口、小倉口の戦いでは海軍の活躍が勝敗を分けた。その三年後の箱館戦争においては、旧幕軍と新政府軍の海軍力の差が勝敗に直結した。軍艦は戦争のあり方も大きく変えたのである。
維新以降、鉄道や洋装などといった西洋の文物が流入し、西洋の政治思想や法体系なども持ち込まれて、我が国の社会は大きく変化したが、洋式軍艦が幕末にもたらした変革はその序奏だったのであろう。

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「天誅組 ―その道を巡る―」 舟久保藍著 京阪奈新書

2018年02月23日 | 書評
インターネットでこの本を見付けた。京阪奈情報教育出版社というのは奈良に根拠をもつ出版会社で、奈良に関連する書籍を発刊している。関東の本屋でいくら探しても店頭でこの本に出合うのは不可能であろう(と思っていたが、八重洲ブックセンターで普通に売っていた)。発注して数日で手元に届いた。
著者舟久保藍氏には「実録天誅組の変」(淡交社)などの著作がある。天誅組研究家第一人者である。
個人的には天誅組関連史跡はほとんど踏破したつもりでいたが、本書を読むとまだまだ奥があることを思い知らされた。例えば、中山忠光が暗殺された下関市北部だけでも、隠棲の地(延行)、潜伏地の一つである常光庵(宇賀村上畑)、三恵寺(豊浦町川棚)などなど。かれこれ十年以上、長州の史跡から御無沙汰しているが、また出かけたくなってしまった。
まず今年は、未踏の奈良県下の天誅組関連史跡から訪問することにしよう。

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