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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

早稲田 Ⅵ

2017年11月11日 | 東京都
(水稲荷神社)


水稲荷神社

 甘泉園の南側に水稲荷神社がある(新宿区西早稲田3‐5‐43)。堀部安兵衛による高田馬場の決闘が行われたのは、このすぐ南側で、それに因んで水稲荷境内に堀部武庸(安兵衛)加功遺跡之碑が建てられている。高田馬場の決闘は元禄七年(1694)のことであるが、この石碑が建てられたのは明治四十三年(1910)のこことで、篆額は西園寺公望、撰文は信夫恕軒、書は日下部東作。賛助者に頭山満、犬養毅、大隈重信、三田村鳶魚らが名を連ねる。


堀部武庸加功遺跡之碑


高田馬場跡

 高田馬場は、寛永十三年(1636)に旗本の馬術練習場として造成された。享保年間(1716~1753)には馬場の北側に松並木がつくられ、八軒の茶屋があったとされる。現在の住所でいうと新宿区西早稲田3‐1・2・12・14番に相当する地域である。馬場の一角、茶屋町通りに面した場所で、高田馬場の決闘があったとされる。

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由比

2017年11月11日 | 静岡県
(由比本陣公園)


由比本陣公園

 JR由比駅を出て、東へ二キロメートルの地点に由比本陣公園がある。ここが由比宿本陣跡である。駅からバスも通っているらしいが本数も少ないので、通常は「由比さくらえび通り」を歩いて往復することになる。所要時間は片道二十五分程度である。由比宿は、江戸から数えて十六番目の宿場で、本陣、脇本陣、問屋場各一、旅籠三十二という比較的小規模な宿場町であった。
 本陣は代々岩辺郷右衛門家がつとめた。岩辺家は鎌倉時代から続いた由比氏の系統といわれる。
 本陣は、石垣と木塀で囲まれた遮蔽形の本陣で、本陣館のほか土蔵、離れ座敷があった。惜しくもその多くは失われてしまったが、千三百坪(約四千三百平方メートル)の広大な敷地、馬の水飲み場の石垣など、往時の姿をとどめている。
 園内には、東海道広重美術館や明治天皇が宿泊した御幸亭(復元)や山岡鉄舟命名の庭園松榧園(しょうひえん)があるが、例によって私が訪れたのは開園前だったので、拝観することはできなかった。


加宿問屋場跡


脇本陣溫飩屋

 由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が三軒あり、そのうち江戸後期から幕末に至るまで脇本陣を務めたのが溫飩屋(うんどんや)である。

(正雪紺屋)
 由比本陣公園の向いが、正雪紺屋である。江戸時代から四百年近く続くといわれる老舗である。慶安事件で有名な由比正雪の生家といわれ、「正雪紺屋」と屋号が付けられている。由比は正雪の出身地であるが、正雪の足跡は驚くほど残っていない。


正雪紺屋
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錦糸町 Ⅵ

2017年11月11日 | 東京都
(堅川中学校)


山岡鉄舟旧居跡

 墨田区立堅川中学校の正門の辺りに、山岡鉄舟の生家小野家があった(墨田区亀沢4‐11‐15)。正門脇に墨田区教育委員会が平成二十年(2008)に建てた説明板が付されている。
 この日、墨田トリフォニーホールで同じ会社のSさんが所属する大学OBオーケストラの演奏会があったため、嫁さんと錦糸町駅で待ち合わせをしていた。私が錦糸町駅に着いたのは約束の二十分前であったが、そのわずかな時間のうちに堅川中学校まで往復することができた。ちょうどこの日、堅川中学校では運動会を開催していた。

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八丈島 Ⅱ

2017年11月03日 | 東京都
(稲葉墓地)
 流人の島として知られる八丈島であるが、その第一号となったのが、関ヶ原で敗れた宇喜多秀家である。
 宇喜多秀家は、備中、備前、美作約五十万石を領し、五大老に列せられた。関ヶ原戦後、一時薩摩の島津家に匿われたが、そのことが人の噂となり、これ以上島津家に迷惑をかけるわけにいかないと自首して出た。秀家は前田利家の娘を正室としていたことから、前田家が助命嘆願に動き、その結果、死刑を免れて慶長十一年(1606)、八丈島に流された。その後、秀家は五十年近くをこの島で過ごし、明暦元年(1655)に世を去った。八十三歳。このとき既に徳川幕府は四代家綱の時代になっていた。


宇喜多秀家の墓

 中央五輪塔形の墓石は、天保十二年(1841)に子孫が建てたもので、当初の墓石は傍らの位牌形の小さなものである(八丈町大賀郷2235‐1)。
 八丈島における宇喜多秀家の末裔は十三族(十六族とも)が確認されている。秀家の墓の周囲にも「浮田家之墓」がいくつか確認できる。
 なお、幕末に活躍した勤王画家宇喜多一惠は、秀家の七世の子孫と称している。


石山留五郎の墓

 宇喜多秀家の墓のすぐ近くに石山留五郎の墓がある。
 石山留五郎は、天保十五年(1844)八丈島に流され、明治十七年(1884)、七十七歳で亡くなるまでの四十年余りを八丈島で過ごした。島では大工の棟梁として活躍し、末吉の長戸路屋敷を建てたことでも知られる。

(中田商店)


宇喜多秀家住居跡

 宇喜多秀家の墓の場所から少し南に行った中田商店の裏に宇喜多秀家の住居跡碑がある(八丈町大賀郷2219)。
 流人として宇喜多秀家が住んでいた場所で、今も池や水路、当時の蘇鉄などが残っている。石碑には秀家が詠んだ和歌が記されている。

 御菩提(みぼだい)の多子(たね)や植介(うえけ)ん此寺尓(このてらに)
 みのり乃秋曾(あきぞ)久しかり遍(べ)き

 寺は宗福寺のことで、秀家もこの寺を菩提寺と定めていた。この歌は、菩提寺を同じくする源為朝家と我が家の子孫繁栄を願う歌である。


宇喜多秀家縁の蘇鉄

(八丈島歴史民俗資料館)
 八丈島歴史民俗資料館の建物は、もと東京都八丈支庁舎であったが、昭和五十年(1975)に資料館として再利用されることになった。館内には先史時代から民族資料、自然(貝類や昆虫標本)、産業(黄八丈、島酒、くさやなど)関係の展示のほか、流人コーナーが注目である(八丈町大賀郷1186)。八丈島で史跡を巡りたいという方は、八丈島歴史民俗資料館でまず「八丈島 名所・旧跡ハンドブック」を入手することをお勧めしたい。


八丈島歴史民俗資料館


近藤富蔵翁之歌碑

 歌碑に刻まれた和歌は、もはやこの年齢で何もいうことはない、書くまいと思っているのだが、長い習慣のためか、いつの間にかまた筆を執ってしまったというもので、書かずにはいられない心境が表現されている。


流人コーナー

 流人コーナーでは主に宇喜多秀家関連の史跡などが紹介されている。

(大里)
 享禄元年(1528)、北条早雲家来中村又次郎が代官として来島し、この場所に陣屋を設けた。江戸時代になると、幕府はここを島役所とした。明治三十三年(1900)には東京支庁が置かれた。言うなれば、長らくこの場所は島の政治の中心であったのである。しかし、明治四十一年(1908)、島庁が他所に移ったため、現在は玉石垣のみが残されているのみとなっている(八丈町大賀郷大里)。


大里の玉石垣

 石垣の石は、海岸から流人がその日の糧を得るために運んで積み上げたものである。芸術的といって良い。

(中之郷上浦墓地)
 三根、大賀郷の史跡を順調に巡り終わり、ここからは八丈島一周道路(都道215号)に沿って、中之郷、末吉へ向かう。何時果てるか分からないような長い上り坂を登ったかと思うと、だらだらとした下り坂が続く。下り坂になると凄いスピードが出るが、強風に煽られ転倒しそうになる。この強風がこの日だけのことなのか、八丈島ではいつものことなのか私にはわからないが、本土では台風でも来ない限り経験しないような風であった。時に細かい雨が顔面に吹き付け、決して快適なサイクリングではなかった。上りと下りを何度も繰り返し、ようやく中之郷の集落に行き着く。
 大阪トンネルに向う道は、特に急な坂である。電動アシスト付き自転車であっても、長距離を移動するのはあまりお勧めしない。
 大阪展望台からの眺めは、八丈島を代表する眺望である。左手に見える島は八丈小島である。右の八丈島最高峰八丈富士(標高854メートル)は雲を被って全容が見えなかったが、天気の良い日に訪れたい場所である。


大阪トンネル展望台からの眺め

 中之郷出張所前バス停の前の道を北に数百メートル進むと分岐点があり、そこを左に折れると直ぐ粥倉の共同墓地がある。そこに梅辻規清(うめつじのりきよ)の墓がある(八丈町中之郷)。

 梅辻規清は、江戸時代末期の神道思想家で、烏伝神道の開祖である。寛政十年(1798)、山城上賀茂神社の社家に生まれた。進学、国学、天文、暦教に造詣が深く、陽明学、禅学にも通じた。好んで諸国を遊歴し、その時の宗教体験と神道信仰、さらに陽明学、禅学の思想を取り入れて確立したのが烏伝神道である。弘化三年(1846)、江戸下谷池の端仲町に居を構え、ここを瑞烏園と名付けて神道教法の本社として広く庶民を教化した。門弟信者数は数千人に及んだといわれる。この頃、規清は尊王開国を主張し、幕府はその活発な布教活動を恐れ、規清を投獄、弘化四年(1847)には八丈島に配流した。規清は中之郷の山下鎗十郎宅に寓して、百冊もの教書を著したといわれ、島民の子弟の教育にも尽力した。文久元年(1861)、六十四歳で没。著書に「日本書紀常世長鳴鳥」「烏伝神道大意」「根国史内篇」「古事記鰐廼鈴形」などがある。


梅辻規清墓

(長戸路屋敷)


長戸路屋敷

 中之郷から末吉までの道のりも決して楽ではなかった。末吉の集落の奥まった場所に長戸路屋敷がある(八丈町末吉2538)。
 長戸路氏は、明応七年(1498)、北条早雲が置いた代官であったが、徳川時代になってからも地役人や御船預役などを歴任して明治に至った。長戸路屋敷は、地形を利用した要害となっており、母屋は流人石山留五郎が文久年間に建築した書院造りである。
 門前に末吉水碑が建てられている。これは、嘉永六年(1853)に長戸路真錬(まささだ)が私財を投じて桑屋ヶ洞から末吉村まで水道を敷設した由来を記した記念碑である。


末吉水碑

(みはらしの湯)
 以上で計画していた八丈島の史跡は全て訪ねることができた。まだ時間があったので、末吉のみはらしの湯で温泉を楽しむことにした(八丈町末吉581-1)。入湯料五百円。
みはらしの湯の建物に入ろうとすると、中から知った顔の男が現れた。行きの船の中で隣り合わせだったイビキ男である。
更衣室に入ると、一人の老人が裸のままフロントに出て行った。ロッカーの鍵が開かないというのである。ロッカーの鍵は長年の使用の結果、鍵穴が広がってしまっており、これを開けるにはちょっとしたコツが必要である。老人の使っていたロッカーだけの現象ではなく、私のロッカーも同様であった。根気強く格闘すれば、開けることはできる。くれぐれも裸で更衣室を飛び出さないように注意したい。


みはらしの湯

 みはらしの湯は、その名前のとおり、高台に作られており、露天風呂から海岸の眺望が素晴らしい。この眺望は贅沢である。泉質は塩分が高く、傷口にピリピリと染みる。八丈島は温泉が各所に湧き出ている。旅の疲れを癒すには絶好である。

(底土港)
 今回の八丈島訪問では少し時間的に余裕があることは予め分かっていたので、密かにシュノーケリングを企んでいた。私は東南アジア、オセアニアを中心に百本以上潜った経験を持つ元ダイバーなのであるが、結婚以来すっかり海とは遠ざかってしまった。八丈島はダイビングやシュノーケリングでも有名なスポットである。ちょっとだけ海の中を覗いてみたいという欲求が膨らんだ。
 大型客船が到着した底土港に行ってみると、雲の間から晴れ間が見える空模様であったが、真っ直ぐ立っていられないような烈風が間断なく吹き付け、そのために次々と大波が岸壁を襲った。とてもでないが、シュノーケリングを楽しめるような状況ではなく、下手したら命を奪われかねない。残念ながら、今回は、シュノーケリングは諦めた。


底土港

 電動自転車を返却して、ここから三十分ほど歩いて八丈島空港に向かうことにした。
 八丈島は東京から南に二百八十七キロメートルの絶海に浮かぶ孤島である。緯度でいえば、高知や長崎と変わらないが、暖流である黒潮の影響を受け、高温多湿の海洋性気候である。道路沿いにはハイビスカスや蘇鉄、ビロウヤシなどの南洋性の植物が見られるかと思えば、彼岸花やコスモスなど本土と変わらない花も見られる。


ハイビスカス


カタツムリ

 生態系も独特である。歩いていてカワウソのような動物が目の前を横切ったし、カタツムリがやたらと多いのもこの島の特徴である。

 帰りは飛行機を使うことにした。料金は船の倍であるが、所要時間はわずか一時間、つまり船の十分の一以下である。
 しかし、この日の強風のため、東京からの飛行機が到着しておらず、場合によっては欠航というピンチであった。東京からの飛行機が到着した時には待合室で拍手が起こった。


飛行機からの夕日
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八丈島 Ⅰ

2017年11月03日 | 東京都
 伊豆諸島の旅の第三弾は八丈島である。
 本当は、三宅島の宮太柱の墓を訪ねる予定を組んでいたのだが、その正確な場所が分からない。三宅島の観光協会や教育委員会に問い合わせても要領を得ず、今回は見送らざるを得なくなった。例によって竹芝桟橋を夜中に出発して、翌日の朝、現地に到着する。帰路は夕刻の飛行機という日帰り弾丸ツアーである。
 心配なのは当日の天気であった。一週間も前から週間予報で八丈島の天気を確認していたのだが、その日だけ雨マークがついている。日程が近づくにつれて、降水確率は上昇の一途であった。ここまで来たら雨を覚悟するしかない。雨が降ることを前提に準備を進めた。
 当日は東京でも雨となり、慌ててコンビニで傘を買うはめになった。現地で雨が降らないことを願うばかりである。


橘丸

 八丈島行きの船(橘丸)は、新島や伊豆大島と同じく竹芝桟橋から出る。二十二時半に出港すると、ほどなく沖に出る。この日はかなり波が高く、船内も時々大きく揺れた。それ以上に隣の男の不規則なイビキに襲われ、ほとんど一睡もできないまま朝を迎えた。イビキをかく奴ほど早く寝付くという法則はここでも間違いでないことが検証された。午前五時前に三宅島に着く。八丈島には三宅島からさらに四時間、竹芝桟橋から十一時間という長旅である。
 幸い雨は降っていなかった。島内の移動のためレンタカーを手配しようとしたのだが、時期が遅かったせいかどこも満車であった。そこで赤松自動車がやっている電動自転車を予約した。
 赤松自動車のオジサンは、口数は多くないがいかにも気の良さそうな人であった。懇切丁寧に電動自転車の使い方を教えてくれた。
「今日はどこまで行くのかな」
と聞かれたので、
「一番遠いところで末吉です。」
と答えると、
「大丈夫」
との回答。自転車で末吉まで往復できるのか不安があったが、オジサンのひと言に背中を押された。島の面積は「山手線の内側とほぼ同じ」ということからすれば、末吉は東京から恵比寿か目黒に行くみたいなものであろう。と、軽く考えて出発した(実際、自転車で東京から恵比寿まで移動した経験もなかったのだが…)。

(西山卜神居記碑)


西山卜神居記碑

 最初の目的地は倉の坂交差点近くの西山卜神居記碑である。いくら探しても見付けることができず、一旦撤収。歴史民俗資料館で位置を確認して再度挑戦して行き着くことができた。少し小高い場所にあるので、上を見ながら歩くのがコツである(八丈町三根)。
 歴史民俗資料館の方によれば、倉の坂交差点の直ぐ北東の脇道を進めば良い、車でも行けるということだったが、恐らく相当古い記憶なのだろう。教えていただいた道は雑草が生い茂り徒歩でも先に進めない状態であった。
 この石碑は伊豆代官羽倉外記(簡堂)が、天保五年(1834)に建立したものである。書は市河米庵。大意は以下のとおり。
八丈島は南海の絶島であり、気候はいたって不順である。元乗山と手石山の間に海神が住むといわれ、神止山と呼ばれた。文化年間(1804~18)に島民の高橋与一がこの山を開拓し、多くの島民の食糧難を救った。その後、天候不順が続いたので、人々は神の住む場所が無くなったからだと恐れ、開墾をやめてしまった。羽倉は、神が愛するのは民であって山ではない、と開墾を続けさせた。一方で島民の気持ちを察して、西山に神を移させた。そして、もし神罰があるなら、自分一人が受けるとそこに記した。
 もとは現在地から北方二百メートルの場所にあったが、昭和二十二年(1947)から二十四年(1949)頃、現在地に移されたという。


西山卜神居記碑 拓本
(八丈島歴史民俗資料館)

(近藤富蔵居宅跡)


近藤富蔵居宅跡

 近藤富蔵の居宅跡石碑が、むつみ保育園の前の道を尾崎橋へ向い、鴨川という小川の手前の畑地にある(八丈町三根)。富蔵は明治十三年(1880)に一旦赦されて本土に戻ったが、翌年帰島した。その時に起居したのが、この場所である。

(尾端観音)
 近藤富蔵居宅跡の前の道を、川を渡ってさらに進むと右手に尾端観音がある。かつて近藤富蔵が建立した御堂が残っていたが、昭和五十年(1975)の台風で惜しくも全壊してしまった。


尾端観音

(招魂社)


招魂社

 招魂社は、三根地区の維新以降の戦没者などを祀る。沖山玉一君忠魂碑は東郷平八郎の書。浅沼由太郎は日清戦争の戦死者である。

(開善院善光寺)
 開善院善光寺の門前に広大な墓地が広がる。ちょうど本堂に近い場所に近藤富蔵の墓および顕彰碑がある(八丈町三根125)。


開善院善光寺


近藤守真(富蔵)の墓


近藤富蔵之碑

 近藤富蔵は、北方探検で有名な近藤重蔵の長男。重蔵は大阪勤番弓奉行を命じられると、塚原半之助に槍ヶ崎の屋敷と庭園の管理を頼んだが、半之助は重蔵の留守中に隣接地に蕎麦屋を開業し、そこから新富士が見えるように重蔵の敷地を勝手に改造した。文政四年(1821)、大阪から戻った重蔵は元に戻すように要求したが、半之助は従わなかった。塚原半之助は博徒上がりの町人で、一筋縄でいくような男ではなかったようである。
 近藤富蔵は、父に従って大阪に赴くと、そこで女と知り合い結婚を誓ったが、父重蔵は認めなかった。そこで父ともめごとを起している半之助を討って、結婚を許してもらおうと考え、文政九年(1826)五月十八日、半之助の蕎麦屋を襲撃し、半之助やその妻、母ら一家七人を斬殺した。「槍ヶ崎事件」とも呼ばれる。
近藤重蔵は有能な人であったが、一方で傲慢な言道も多く、敵も多かったようである。日ごろの重蔵への反発もあり、評定は厳しいものであった。近藤家は断絶、重蔵は近江国大溝藩分部家に預けられた。富蔵は八丈島に流罪となった。
文政十二年(1829)、重蔵は近江で没した。富蔵は文政十年(1829)八丈島に流され、以来五十年余を島で過ごした。明治十三年(1880)に許されて本土に戻ったが、父の墓参りなどを済ますと、再び八丈島に帰りそこで生涯を閉じた。八十三歳であった。
一家七人の斬殺という残虐な事件を起した富蔵であるが、八丈島では敬虔な仏教徒として過ごし、「八丈実記」六十九巻を表して八丈島の歴史や風俗を集録して紹介した。


「八丈実記」
(八丈島歴史民俗資料館)

五十年という長い年月は、重罪人富蔵の心を浄化した。確かに、八丈島の人は(私が接したのは、赤松自動車のオジサンとか温泉の受付のおばあさんとか歴史民俗資料館の方と、ごく限られた人でしかないが)本当に良い人ばかりで、こういう人々に囲まれて生活していると、汚れた心に変容を来す効果があるのかもしれない。
それにしても、八丈島には流罪ではなくてもとからこの地で生活している人もいるわけで、そういう人々にしてみれば、流罪というのは失礼な罪罰である。

(宗福寺)


宗福寺

 宗福寺本堂左側に御赦免花の碑がある(八丈町大賀郷2497)。
 無実の罪で八丈島へ流罪となった東叡山末、竜眼寺の住僧慈運は、抗議の断食の末、宝暦四年(1745)に没した。これを憐れんだ流人や島人が墓を建立し、その傍らに二株の蘇鉄を植えた。その後、この蘇鉄が開花すると必ず赦免状が届くという不思議な現象が起き、いつしかこの蘇鉄の花は御赦免花と呼ばれるようになり、流人はその開化を待ち望むようになった。
 明治元年(1868)、この御赦免花が開花すると、明治天皇の元服による大赦が発せられた。同年十月十五日には七十五人が放免された。明治二年(1869)には、宇喜多秀家の子孫一族十三人も、慶長十一年(1606)以来の刑を許されている。


慈運法印(御赦免花の碑)

 大赦をうけた流人たちが、慈運に感謝の意をこめて、御赦免花の碑を建立した。もとは大賀郷馬路にあったが、昭和四十二年(1967)、宗福寺境内に移された。
 明治政府も流罪制度を継承し、明治四年(1871)まで島送りは続けられたが、明治十四年(1881)に全ての流人が赦免された。

(護神山公園)


島酒の碑

 宗福寺から都道に沿って西へ数百メートルいくと、護神山公園がある(八丈町大賀郷)。そこに島酒(しまざけ)の碑がある。
 丹庄宗右衛門は、薩摩国阿久根出身の薩摩藩御用の回漕問屋であった。調所広郷のもとで琉球との密貿易に加担していたが、嘉永六年(1853)、密貿易を密告されて捕えられ、八丈島に流された。
 当時の八丈島は米がとれないため、稗などで作ったドブロクが主流であった。島でサツマイモが栽培されていることを知った宗右衛門は、薩摩から蒸留器を取り寄せ、島民に焼酎作りを伝授した。
 八丈島には現在六軒の焼酎製造元がある。この碑はその由来を記して、流人の功績を永く後世に伝えるものである。

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