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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「ラザフォード・オルコック」 岡本隆司著 ウェッジ選書

2012年11月03日 | 書評
ラザフォード・オールコック(本書ではオルコック)というと、長州藩に対する四カ国艦隊による攻撃を主導した強硬派。恫喝や砲艦外交、さらには初めて霊峰富士山を登頂した外国人であり、そのことが国内の攘夷派をいたく刺激した。何か、遠慮がなく、無神経で、短気で、高圧的なイメージが強いが、実は我々はこの高名な外交官について、あまり良く知らないのである。本書では、オールコックの日本駐在時代の事績だけではなく、生誕から中国での外交官時代、そして母国に戻ってからの余生に至るまで、伝記風に叙述したものである。
若き日のオールコックは、腕の良い外科医であった。ところが、重度のリウマチに罹り、その後遺症で両手両腕に麻痺が残ってしまう。このことが彼にとって大きな転機になった。外科医として成功する夢を奪われたオールコックは、伝手をたよって外務省に向かった。そこで競争を勝ち抜いて、新しく開かれた中国の開港場・福州における領事に任じられることになった。
当時のイギリスの外交官は、外交部門(diplomatic service)と領事部門(consular service)という二つの厳然とした流れがあり、「部署が異なる、という以上の隔たりがあって、相互の乗り入れはほとんどなかった」(本書P.41)。外交部門は名門出身のエリートであったが、結果からいうと、オールコックは、下働きである領事部門から外交部門にのし上がった稀有な存在となった。オールコック以後、後を追ったのが、パークスであり、サトウである。オールコックはそれほど有能な外交官であった。
オールコックは、日本のミカドと大君による二重支配構造を喝破し、「開市開港の延期」という到底受け入れられない任務を担う竹内使節団を支持する方針を取った。それまでの欧米の外交といえば、いったん条約を結んだらその遵守をひたすら強要するものであったが、オールコックがその締結に力を注いだ「ロンドン覚書」は、それとは全く逆の発想、思考に基づくものであった。彼には、駐在国の政情に対する深い洞察と戦略眼があったのだろう。この能力は中国での領事や駐中公使としても存分に発揮された。
本書では、オールコックの業績を称えるとともに、(おそらく病気の後遺症のせいもあるのだろうが)彼の悪筆と彼の書く文章の「口数の多さ」(端的にいうと冗長ということか)にまで言及している。実際にオールコックの残した膨大な量の文章に一つひとつあたった研究者ならではの「愚痴」である。思わずクスリと笑ってしまった。

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匝瑳 Ⅱ

2012年11月03日 | 千葉県
(福善寺)


文武両道大木左内先生碑

 大木左内の顕彰碑を訪ねて、再び匝瑳市福善寺に足を運んだ。八日市場松山における戦争に敗れた水戸諸生党は四散した。首領市川三左衛門は、近くに住む剣客大木左内を訪ねる。市川は右腕に深手を負っていたが、手当を受けたあと、夜になってから舟で湿地を渡り、松林の中に小屋を作ってそこで過ごした。大木は時々食事を運んでいたが、やがて住民に知られることになったため、市川は東京に移り住んだ。その後、大木は密告により捕まり、水戸赤沼の獄で拷問を受けたが、遂に口を割らなかったという。

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天満橋 Ⅲ

2012年11月03日 | 大阪府
(天神橋)


天神橋

 文久三年(1863)五月二十日、大阪西町奉行与力内山彦次郎が、天神橋南詰めで暗殺された。新選組によるものと言われているが、近年、研究者の間では否定されている。

(八軒屋船着場跡)


八軒家浜


常夜燈

 八軒家は、京都と大阪を繋ぐ淀川舟運の大阪側の起点として非常に賑わった。往時には三十石船が行き交ったが、現在は観光船が発着している。最近、船着場周辺が整備され、おしゃれな商業施設などもオープンしており、ちょっとした名所になっている。

(大阪中央郵便局)


前島密胸像

 大阪中央郵便局の前に「日本近代郵便の父」前島密の胸像がある。現在、郵便局のあるこの場所には、江戸期紀州藩邸があった。
 明治四年(1871)、前島密の建議により東京、京都、大阪間に郵便が開通した。大阪で最初に郵便局が置かれたのは、現在の日本銀行大阪支店の場所である。その年の十月には現在の大阪中央郵便局に移転している。

 前島密の胸像の傍らには、前島密の「信条」が記されている。
――― 縁の下の力持ちになることを厭うな 人のためによかれと願う心を常に持てよ


明治天皇聖躅碑

 明治天皇聖躅碑の裏側に「紀州邸」と刻まれている。

(長光寺)


長光寺

 長光寺の住職、龍護は、周防妙円寺の勤王僧月性の叔父である。この縁で、月性が大阪に出たとき、長光寺を宿所とした。


維新史蹟 贈正四位僧月性龍護遺跡 長光寺

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北浜 Ⅱ

2012年11月03日 | 大阪府
(難波橋)


難波橋

 難波橋は、天神橋、天満橋とともにかつて「なにわの三大橋」と呼ばれた。現在、橋の四隅にライオンの石像が置かれているため、「ライオン橋」の異名がある。
 池内大学(陶所)が斬殺され、難波橋に梟首されたのが、文久三年(1863)一月二十四日のことであった。下手人は土佐の岡田以蔵と言われる。

(大阪会議跡)


花外楼

 久し振りに北浜を歩いたところ、花外楼の上に維新の元勲を描いたレリーフが飾られていることに気が付いた。ずっと昔からあって、私が気が付かなかっただけかもしれないが、せっかくだから紹介しておく。
 左上から大久保利通、木戸孝允、板垣退助、下段は伊藤博文、井上馨。「三権分立 漸次立憲 合意に至る(大阪会議)」と記されている。

(大阪証券取引所)


大阪金相場会所跡

 五代友厚像の背後、大阪証券取引所の壁面に、この場所に大阪金相場会所があったことを示す銅板が埋め込まれている。江戸期の全国の金相場は、寛保三年(1743)以降、この場所で決められた。当時、関東では金、関西では銀が貨幣の主流となっており、日々その交換比率を決める必要があった。明治十一年(1878)に証券取引所が設立されると、閉鎖された。

(大阪慶應義塾跡)


大阪慶應義塾跡

 北浜駅から少し西に行った道路脇に「独立自尊」と書かれた碑が建てられている。明治初年、洋学を志す者は福沢諭吉が開校した慶應義塾に殺到した。遠隔地の生徒の不便を考え、明治六年~七年(1873~74)、京都、大阪、徳島に相継いで分校を開設した。

(大阪銀座跡)


大阪銀座跡

 北浜から東、松屋町筋に近い場所のビルの前に大阪銀座跡の碑がある。銀座といえば、東京の銀座が有名であるが、大阪にもかつて銀座があった。主に生野や石見で産出される銀や銅の製錬過程から分離抽出される銀を取り扱った。

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淀屋橋 Ⅲ

2012年11月03日 | 大阪府
(中之島図書館)


大阪府立中之島図書館

大阪出張の朝、少し時間があったので、早起きして二時間ほどかけて淀屋橋、北浜から天満橋周辺を散策した。この辺りは、大阪の中でも特に江戸時代に商業の中心地として発展した地域であり、様々な史跡が点在している。

 大阪は住友の街である。この府立中之島図書館も十五代住友家当主吉左衛門友純(ともいと)の寄付により、明治三十七年(1904)に開設されたものである。設計は野口孫市。重要文化財に指定されている。
 図書館の前には、歌人川田順の歌碑が置かれている。川田順は、住友本社に長く勤務した。父は備中藩の川田甕江。


 難波津のまなかに植ゑし智慧の木は
 五十年を經て大樹となりぬ

(大阪市中央公会堂)


大阪市中央公会堂

 中之島図書館に隣接する中央公会堂も赤煉瓦造りの重厚な建築物である。この建物は、明治四十四年(1911)に市民の寄付をもとに建設されたものである。岡田信一郎氏の設計を原案に、辰野金吾や片岡安という当代を代表する建築家の手によって設計された。大正七年(1918)に完工、開館した。やはり重要文化財に指定されている。


大阪通商会社 為替会社跡

 中央公会堂の場所には、かつて大阪通商会社が設立された。明治二年(1869)八月、明治新政府は、商業振興を目的として通商会社を、資金を供給するための為替会社を作った。しかし、明治六年(1873)には通商会社は一切の営業を為替会社に譲渡した。為替会社の方も明治七年(1874)、利益を上げることなく解散した。短命に終わった通商会社、為替会社であるが、両会社とも近代的銀行の性格を持っている。両替商から国立銀行への橋渡し的存在と言える。

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円山公園 Ⅱ

2012年11月01日 | 京都府
(長楽寺)

 正法寺の品川弥二郎の墓を訪ねた後、まだ時間があったので、少し歩いて長楽寺まで行ってみることにした。以前長楽寺を訪ねたのは、十年以上前になろうか。久し振りの長楽寺墓地には至るところに蜘蛛の巣が張られており、ひどい目に遭った。


尊攘碑

「尊攘」の文字は、斉昭の揮毫によるもの。鵜飼父子の功績と、処刑された没後の文久二年(1862)に罪が赦されたこと、さらに明治二十四年(1891)、従四位が贈られたことが記されている。


水戸藩兵留名碑

 文久三年(1863)、水戸藩主徳川慶篤が率いる尊攘派烈士三百余人が上洛して、本圀寺に駐屯して皇室の守衛や慶喜の補佐にあたった。彼らは本圀寺党と呼ばれた。明治元年(1868)帰藩するまでに死亡した八十六名におよぶ殉難者の氏名がこの石碑の裏面に刻まれている。


水戸故執政大場一真斎墓

 水戸藩士大場一真斎は、斉昭に重用され、安政五年(1858)の密勅返納問題でも反対派として活躍した。文久三年(1863)には藩主慶篤にしたがって上洛し、禁裏守衛に尽くした。水戸藩兵を本圀寺に駐屯させ、本圀党を統率した。徳川慶喜が京都を離れたあとも、二条城留守居役として京に留まり、維新後も京都に住んで、明治四年(1871)この地で病没した。


故従四位下権侍従左衛門佐源孝顕子墓
(松平昭訓の墓)

 徳川昭訓は、斉昭の十四子。幼名は余四麿。文久三年(1863)の慶篤上洛に従い、年少ながら慶篤を助けて御所守衛に努めた。侍従左衛門佐に任じられ将来を嘱望されたが、文久三年(1863)、十一月二十三日、病のため没した。十六歳であった。


竹外醉士之墓
(藤井竹外の墓)

 頼山陽の墓の前に藤井竹外の墓がある。藤井竹外は、高槻藩士。頼山陽、梁川星巌に学び、広瀬淡窓、森田節斎らと交わった。星巌が玉池吟社を開いたときも、これに参加した。七言絶句「芳野懐古」は、幕末の志士に愛誦され、「絶句竹外」と呼ばれた。慶應二年(1866)六十歳にて没。


貞節君小石氏墓

 頼梨影は、頼山陽の妻。彦根の生まれ。京都の蘭医小石玄瑞の家で下女として働いていた折、山陽の目にとまり妻となった。小石玄瑞の養女となったため、墓にも小石氏と刻まれている。結婚後、詩画を学び、読書に努め、山陽の学問も理解して、代理で子弟に教授できるまでになったという。奉行所より、生前山陽に貞節を尽くしたことを賞賛されて「貞節君」の称号が贈られた。三樹三郎の母である。安政二年(1855)、五十九歳で死去。


旗山児玉先生墓

 児玉旗山は、大聖寺藩士。文政九年(1826)、京都に上って頼山陽に師事し、のちに私塾を開いた。山陽に認められ、その子の三樹三郎を教えた。天保六年(1835)死去。三十五歳。


高畠志貴婦之墓

 高畠志貴婦(式部)は、幕末明治期に活躍した女流歌人である。名は登美子。初めは式部と称したが、のちに志貴婦と改めた。香川景樹、千種有功(ありこと)に学び、書画、彫刻、笙、琵琶、茶道にも通じた。当時の京都歌壇では、太田垣蓮月尼と並び称された。明治十四年(1881)、九十八歳で死去。

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霊山・高台寺 Ⅲ

2012年11月01日 | 京都府
(正法寺)


正法寺

 関西方面への出張が入ったので、少し早起きして京都で途中下車した。今回は、二時間足らずの間に、霊山歴史館の裏手にある正法寺まで往復する。

 急な階段を登ったところに正法寺に山門がある。本堂脇から墓地に入ると、その一角に長州藩士品川弥二郎夫妻の墓がある。


品川弥二郎墓

(霊明神社)


霊明神社

 正法寺に至る石段の途中に、霊明神社がある。ともすれば、見過ごしてしまいそうな小さな神社である。文久二年(1862)十一月十八日、竹御所(曇華院)に仕える勤王家吉田玄蕃の志により、長州清末藩国学者船越清蔵守愚の墓を建立し、長州藩士が列席して神道葬が行われた。これが機縁となって長州藩を初めとして殉難志士を埋葬祭祀することになった。同年十二月には津和野藩福羽美静らの発起により、安政の大獄以降の殉難志士の「報国忠死の霊魂祭」が営まれ、これが招魂社や靖国神社創建の起源となった。明治政府は、この地を我が国初の官祭招魂社と定め、墓地、境内も霊山護国神社に譲渡された。

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