ラザフォード・オールコック(本書ではオルコック)というと、長州藩に対する四カ国艦隊による攻撃を主導した強硬派。恫喝や砲艦外交、さらには初めて霊峰富士山を登頂した外国人であり、そのことが国内の攘夷派をいたく刺激した。何か、遠慮がなく、無神経で、短気で、高圧的なイメージが強いが、実は我々はこの高名な外交官について、あまり良く知らないのである。本書では、オールコックの日本駐在時代の事績だけではなく、生誕から中国での外交官時代、そして母国に戻ってからの余生に至るまで、伝記風に叙述したものである。
若き日のオールコックは、腕の良い外科医であった。ところが、重度のリウマチに罹り、その後遺症で両手両腕に麻痺が残ってしまう。このことが彼にとって大きな転機になった。外科医として成功する夢を奪われたオールコックは、伝手をたよって外務省に向かった。そこで競争を勝ち抜いて、新しく開かれた中国の開港場・福州における領事に任じられることになった。
当時のイギリスの外交官は、外交部門(diplomatic service)と領事部門(consular service)という二つの厳然とした流れがあり、「部署が異なる、という以上の隔たりがあって、相互の乗り入れはほとんどなかった」(本書P.41)。外交部門は名門出身のエリートであったが、結果からいうと、オールコックは、下働きである領事部門から外交部門にのし上がった稀有な存在となった。オールコック以後、後を追ったのが、パークスであり、サトウである。オールコックはそれほど有能な外交官であった。
オールコックは、日本のミカドと大君による二重支配構造を喝破し、「開市開港の延期」という到底受け入れられない任務を担う竹内使節団を支持する方針を取った。それまでの欧米の外交といえば、いったん条約を結んだらその遵守をひたすら強要するものであったが、オールコックがその締結に力を注いだ「ロンドン覚書」は、それとは全く逆の発想、思考に基づくものであった。彼には、駐在国の政情に対する深い洞察と戦略眼があったのだろう。この能力は中国での領事や駐中公使としても存分に発揮された。
本書では、オールコックの業績を称えるとともに、(おそらく病気の後遺症のせいもあるのだろうが)彼の悪筆と彼の書く文章の「口数の多さ」(端的にいうと冗長ということか)にまで言及している。実際にオールコックの残した膨大な量の文章に一つひとつあたった研究者ならではの「愚痴」である。思わずクスリと笑ってしまった。
若き日のオールコックは、腕の良い外科医であった。ところが、重度のリウマチに罹り、その後遺症で両手両腕に麻痺が残ってしまう。このことが彼にとって大きな転機になった。外科医として成功する夢を奪われたオールコックは、伝手をたよって外務省に向かった。そこで競争を勝ち抜いて、新しく開かれた中国の開港場・福州における領事に任じられることになった。
当時のイギリスの外交官は、外交部門(diplomatic service)と領事部門(consular service)という二つの厳然とした流れがあり、「部署が異なる、という以上の隔たりがあって、相互の乗り入れはほとんどなかった」(本書P.41)。外交部門は名門出身のエリートであったが、結果からいうと、オールコックは、下働きである領事部門から外交部門にのし上がった稀有な存在となった。オールコック以後、後を追ったのが、パークスであり、サトウである。オールコックはそれほど有能な外交官であった。
オールコックは、日本のミカドと大君による二重支配構造を喝破し、「開市開港の延期」という到底受け入れられない任務を担う竹内使節団を支持する方針を取った。それまでの欧米の外交といえば、いったん条約を結んだらその遵守をひたすら強要するものであったが、オールコックがその締結に力を注いだ「ロンドン覚書」は、それとは全く逆の発想、思考に基づくものであった。彼には、駐在国の政情に対する深い洞察と戦略眼があったのだろう。この能力は中国での領事や駐中公使としても存分に発揮された。
本書では、オールコックの業績を称えるとともに、(おそらく病気の後遺症のせいもあるのだろうが)彼の悪筆と彼の書く文章の「口数の多さ」(端的にいうと冗長ということか)にまで言及している。実際にオールコックの残した膨大な量の文章に一つひとつあたった研究者ならではの「愚痴」である。思わずクスリと笑ってしまった。