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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

八王子 Ⅵ

2012年11月11日 | 東京都
(大蔵院福生寺)


大蔵院福生寺

 平町の大蔵院福生寺は、元和七年(1621)の開創。農兵を組織して官軍に抵抗した佐藤彦五郎は、戦後家族を伴って大蔵院福生寺に避難した。

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府中 Ⅳ

2012年11月11日 | 東京都
(高安寺)


高安寺


贈正五位木曾源太郎義顯墓

 分倍河原駅で電車を降りて、旧甲州街道を東に数分歩くと、高安寺という少し大きな寺に行き着く。
 高安寺の広い墓地にあって、ひと際背の高い墓石が木曾源太郎のものである。
 木曾源太郎は熊本藩士。初め入江八千兵衛という名前であったが、自ら木曾義仲二十五代目の末裔と称して、木曾姓に改めた。林桜園に学び、のち平田銕胤、鈴木重胤らについて国学を修めた。長じて兵学の研究に専念した。安政末年に上京して、勤王の志士西園寺実満と行動をともにして、皇権の回復を画策した。文久元年(1861)熊本に戻って兵法師範をしていたが、文久三年(1863)、脱藩して再び上京し、倒幕運動に身を投じた。この頃、旭健と名乗った。同年十月、平野國臣、美玉三平らとともに生野で挙兵。代官所を占拠したが、幕府軍に鎮圧されて長州に逃れた。生野の変の首謀者は、大半が戦死または捕縛されたが、木曾源太郎は奇跡的に生き延びた。維新後は、伊勢度会藩判事や湊川神社、鎌倉宮の宮司を歴任した。晩年は、府中町の縁戚古瀬方(長女多賀子の嫁ぎ先)に隠棲した。大正七年(1918)十二月、八十歳にて死去。墓標の撰文は、沢宣嘉(生野の変の首領)の孫、沢宣一によるもの。

(観音院)


観音院


糟屋良循の墓

 旧甲州街道沿いの観音院には、土方歳三の三番目の兄、糟屋良循の墓がある。現在の町名は白糸台となっているが、当時は下染谷村といった。この地で医家を営んでいた糟谷家を継いで医師となった。

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曙橋 Ⅱ

2012年11月11日 | 東京都
(青峰観音)


青峰観音

 住吉町の交差点を北西に進む。緩やかな坂を上りきった辺りに、青峰観音がある。
 明治八年(1875)、伝馬町の獄がこの地に移った。ちょうど観音像のある辺りが首斬り場のあった場所という。市ヶ谷の監獄は中野に移転したが、大正初期に処刑場跡に観音像が置かれたのが、青峰観音の由来である。この観音堂の落成式には、山田浅右衛門(九代目吉顕)が家伝の刀を奉納したという。

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錦糸町 Ⅲ

2012年11月11日 | 東京都
(法恩寺)


法恩寺


陽運院

 実は六年前にも、法恩寺塔頭陽運院を訪ねたことがあったが、結局お目当ての祐天仙之助の墓は見つけられず、そのままになっていた。思い立って再度法恩寺を訪ねた。
 やはり簡単には見つけられず、半ば諦めかけたところで陽運院に入ると、中からちょうど若い坊さんが出てきた。「祐天仙之助の墓にお参りしたい」と申し出ると、墓までご案内いただけた。墓の在り処は法恩寺の塔頭の一つ千榮院の向かいにある広い墓地である。入って左手の壁沿いに戒名を刻んだ墓がある。坊さんは、墓の前に線香を置くと、「先にお参りしてください。研究はそのあとで」と言って去って行った。


本哲院宗勇智山居士
(山本仙之助の墓)

 祐天仙之助こと山本仙之助は、甲斐西山梨郡相川村の出身で、甲州博徒の大親分であった。文久三年(1863)、幕府が浪士組を結成したのに、子分三十人を引き連れて応募し、五番隊長に任じられた。祐天仙之助は過去に甲斐南巨摩郡鰍沢で下野喜連川左馬頭家来大村某を殺したことがあった。江戸に戻って新徴組隊士となった仙之助は、遺子大村達尾らにより同年十月十五日、北千住の女郎屋前で仇討ちにあった。死亡年齢不詳。

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鶯谷 Ⅱ

2012年11月11日 | 東京都
(法清寺)


法清寺


松長長三郎の墓

 長谷川伸「佐幕派史談」に「松長長三郎の死」という小編がある。さっそく松長長三郎の墓を訪ねて入谷の法清寺に行ってみた。さして広くはない墓地であるが、散々歩いても墓は見つけられなかった。
 二日後、再挑戦。この日も暑い日であった。古そうな墓の裏面側面を一つひとつ確認しながら歩いて、ようやく松長長三郎の墓に出会うことができた。

 松長長三郎は、新潟奉行所の下僚であった。幕末の新潟奉行は七代目白石下総守で、その部下である田中廉太郎は組頭である。松長長三郎は、田中廉太郎の部下であり、新潟奉行の組織にあってはトップどころか、三番手という存在であった。当時、新潟は北越における良港であり、横浜から武器弾薬などを輸送するにも重要な拠点であった。幕末の風雲も新潟の地に及び、新潟の重要性に気が付いた新政府と奥羽越列藩同盟との間に激しい綱引きがあった。白石下総守は、田中廉太郎を同行して江戸に上り、徳川家に新潟の処置について指示を仰いだ。徳川家からは、新政府に引き渡すよう下知があり、白石は江戸にあった北陸道総督府に出頭して請け書を差し出した。白石は新潟奉行を免じられたことからそのまま江戸にとどまったが、田中は新政府に召しだされ、急ぎ新潟に赴くよう命じられた。田中が新潟に立ち戻ったのは、慶應四年(1868)閏四月のことである。その後、上司である田中廉太郎は磐城平で身柄を拘束され、松長は事実上の新潟奉行(厳密にいうと新潟奉行勤向)のトップとなっていた。列藩同盟軍は松長を呼び出し、拘禁された松長は連日取調を受けた。拘束が十日に及んだ七月二十八日、松長は割腹して果てた。長谷川伸によれば「なぜ自殺したか、これを説くべき的確な資料が見当たらない」という。いずれにせよ、松長長三郎が自刃した翌日、新政府軍の猛攻に耐えられず、米沢藩士色部長門は壮烈な死を遂げ、同盟軍は新潟から駆逐された。結果からいえば、松長長三郎があと一日生き永らえていれば、新しい世で活躍する道も開けただろう。時に四十二歳。松長の遺体は、当初新潟法音寺に葬られたが、新潟における戦争が落着して後、改めて火葬に付され、入谷の法清寺に埋葬された。

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