(高安寺)
高安寺
贈正五位木曾源太郎義顯墓
分倍河原駅で電車を降りて、旧甲州街道を東に数分歩くと、高安寺という少し大きな寺に行き着く。
高安寺の広い墓地にあって、ひと際背の高い墓石が木曾源太郎のものである。
木曾源太郎は熊本藩士。初め入江八千兵衛という名前であったが、自ら木曾義仲二十五代目の末裔と称して、木曾姓に改めた。林桜園に学び、のち平田銕胤、鈴木重胤らについて国学を修めた。長じて兵学の研究に専念した。安政末年に上京して、勤王の志士西園寺実満と行動をともにして、皇権の回復を画策した。文久元年(1861)熊本に戻って兵法師範をしていたが、文久三年(1863)、脱藩して再び上京し、倒幕運動に身を投じた。この頃、旭健と名乗った。同年十月、平野國臣、美玉三平らとともに生野で挙兵。代官所を占拠したが、幕府軍に鎮圧されて長州に逃れた。生野の変の首謀者は、大半が戦死または捕縛されたが、木曾源太郎は奇跡的に生き延びた。維新後は、伊勢度会藩判事や湊川神社、鎌倉宮の宮司を歴任した。晩年は、府中町の縁戚古瀬方(長女多賀子の嫁ぎ先)に隠棲した。大正七年(1918)十二月、八十歳にて死去。墓標の撰文は、沢宣嘉(生野の変の首領)の孫、沢宣一によるもの。
(観音院)
観音院
糟屋良循の墓
旧甲州街道沿いの観音院には、土方歳三の三番目の兄、糟屋良循の墓がある。現在の町名は白糸台となっているが、当時は下染谷村といった。この地で医家を営んでいた糟谷家を継いで医師となった。