本書序章から
――― 一般的に幕末の政争は、尊王攘夷vs公武合体と言われてきた。しかし、その図式は実態をほんとうに捉えているであろうか。そもそも、「尊王攘夷」という歴史用語であるが、尊王は天皇(朝廷)を尊ぶという思想であり、攘夷は夷狄(外国)を打払うという対外政略である。その二つの異なる概念が、合体している。また、「公武合体」は朝廷と幕府を融和しいて、国内を安定させようとする国体論である。つまり、<尊王><攘夷><公武合体>は対立する概念ではないのだ。本書で主として扱う文久期(1861~1864)と言えば、例外なく日本人すべてが尊王であり、攘夷であった。
本書前半の論説は、この一文に集約されていると言えよう。攘夷にも、通商条約を容認した上で国力を養成しようという<大攘夷>と、通称条約を破棄して戦争も辞さないという<小攘夷>とがある。これをひっくるめて「攘夷」と称するのであれば、確かにこの時代の討幕派も佐幕派も攘夷主義である。根幹にある東アジア的華夷思想は両者に共通しているとはいえ、やはり政治的には<大攘夷>と<小攘夷>は全く対立するものであり、相容れないものであった。
本書後半では、これまであまり触れられることのなかった朝陽丸事件にスポットライトを当てている。実はかつて三田尻(山口県防府市)を訪れたとき、中根市之丞(幕臣。朝陽丸事件の犠牲者)の墓を探して歩いたことがある。結局、付近に何の行先案内も無く、探し当てることはできなかった。地元でもほとんど忘れ去られたこの事件を、長州藩と小倉藩との対立に端を発し、八一八の政変に繋がる重要な事件と筆者は位置付ける。奇兵隊激徒が、無抵抗の幕府糾問使を惨殺するというこの陰惨な事件は、勝者である長州にとって触れて欲しくないスキャンダルであり、何とかして隠蔽したいという意図があったのではないか。
――― 一般的に幕末の政争は、尊王攘夷vs公武合体と言われてきた。しかし、その図式は実態をほんとうに捉えているであろうか。そもそも、「尊王攘夷」という歴史用語であるが、尊王は天皇(朝廷)を尊ぶという思想であり、攘夷は夷狄(外国)を打払うという対外政略である。その二つの異なる概念が、合体している。また、「公武合体」は朝廷と幕府を融和しいて、国内を安定させようとする国体論である。つまり、<尊王><攘夷><公武合体>は対立する概念ではないのだ。本書で主として扱う文久期(1861~1864)と言えば、例外なく日本人すべてが尊王であり、攘夷であった。
本書前半の論説は、この一文に集約されていると言えよう。攘夷にも、通商条約を容認した上で国力を養成しようという<大攘夷>と、通称条約を破棄して戦争も辞さないという<小攘夷>とがある。これをひっくるめて「攘夷」と称するのであれば、確かにこの時代の討幕派も佐幕派も攘夷主義である。根幹にある東アジア的華夷思想は両者に共通しているとはいえ、やはり政治的には<大攘夷>と<小攘夷>は全く対立するものであり、相容れないものであった。
本書後半では、これまであまり触れられることのなかった朝陽丸事件にスポットライトを当てている。実はかつて三田尻(山口県防府市)を訪れたとき、中根市之丞(幕臣。朝陽丸事件の犠牲者)の墓を探して歩いたことがある。結局、付近に何の行先案内も無く、探し当てることはできなかった。地元でもほとんど忘れ去られたこの事件を、長州藩と小倉藩との対立に端を発し、八一八の政変に繋がる重要な事件と筆者は位置付ける。奇兵隊激徒が、無抵抗の幕府糾問使を惨殺するというこの陰惨な事件は、勝者である長州にとって触れて欲しくないスキャンダルであり、何とかして隠蔽したいという意図があったのではないか。