(玄国寺)
玄国寺
玄国寺書院(旧岩倉具視邸)
高田馬場近くの玄国寺は、開基承和年間(834~847)という古刹である。書院は岩倉具視の旧邸を移築したものである。もとは馬場先門付近にあったもので、病の床にある岩倉を明治天皇が見舞ったという言われのある建物である。
(宗参寺)
宗参寺
月海院殿瑚光浄珊居士墓
(山鹿素行の墓)
早稲田大学近くにある宗参寺には、山鹿素行の墓があり、そのそばに乃木希典の死後、乃木邸から移植されたという梅の木がある。
乃木将軍遺愛の梅「春日野」
山高氏之墓
山鹿家の墓域の一段高い場所に山高信離(のぶつら)の墓がある。山高信離は幕臣で、慶応二年(1866)には徳川昭武に随行してパリ博覧会に参列した。明治元年(1868)五月に帰国したときには幕府は瓦解した後であった。維新後は大蔵省、内務省に出仕し、米国博覧会事務局事務官や内国勧業博覧会事務局用掛を務めた。明治二一年(1888)には博物館長に任じられた。明治四十年(1907)死去。年六十六。
玄国寺
玄国寺書院(旧岩倉具視邸)
高田馬場近くの玄国寺は、開基承和年間(834~847)という古刹である。書院は岩倉具視の旧邸を移築したものである。もとは馬場先門付近にあったもので、病の床にある岩倉を明治天皇が見舞ったという言われのある建物である。
(宗参寺)
宗参寺
月海院殿瑚光浄珊居士墓
(山鹿素行の墓)
早稲田大学近くにある宗参寺には、山鹿素行の墓があり、そのそばに乃木希典の死後、乃木邸から移植されたという梅の木がある。
乃木将軍遺愛の梅「春日野」
山高氏之墓
山鹿家の墓域の一段高い場所に山高信離(のぶつら)の墓がある。山高信離は幕臣で、慶応二年(1866)には徳川昭武に随行してパリ博覧会に参列した。明治元年(1868)五月に帰国したときには幕府は瓦解した後であった。維新後は大蔵省、内務省に出仕し、米国博覧会事務局事務官や内国勧業博覧会事務局用掛を務めた。明治二一年(1888)には博物館長に任じられた。明治四十年(1907)死去。年六十六。