(有栖川熾仁親王本営遺跡)
実は日向には四半世紀前に訪れた後、今から十年ほど前にも訪問して西南戦争関係の史跡や「黒田の家臣」と呼ばれる寺田屋事件で捕らえられ処刑された海賀宮門らの墓は訪問済みなのだが、どういうわけかその時撮影した画像を紛失してしまった。今回は撮り直しの旅である。
有栖川征討総督宮殿下御本営跡
有栖川熾仁親王本営遺跡
有栖川熾仁親王は、戊辰戦争の際にも総督となった。西南戦争でも総督となって現地に赴いている。但し、戊辰戦争の時は西郷をバックアップする立場であったのに、時が移って西南戦争時は西郷を討つ立場となった。親王はどんな心境であったか。
本営跡は、一部修築はされているものの、今も当時の雰囲気を伝えている。
当時の摂津屋の子孫に当たる三輪さんとおっしゃる方が住んでおられる。
(細島官軍墓地)
有栖川熾仁親王本営遺跡から東に数分歩いたところに、一般の墓地のすぐ上に官軍墓地がある。第一連隊第三大隊長迫田鐡五郎以下二百五十六名が眠る。墓石は数年前に新しくなっているが、墓標は原文のままなのだそうである。
所属していた連隊名や、出身地、没年齢、負傷した地名などまで一つ一つの墓石に刻み込まれている。
細島官軍墓地
陸軍少佐正七位迫田鐵五郎之墓
迫田鐵五郎は、嘉永三年(1850)一月1生まれ。薩摩藩士。藩校造士館に学び、剣も修めた。慶応三年(1867)島津久光に従い京都で禁裏守護に当たった。鳥羽伏見に従軍し、京橋筋の高松、忍二藩兵を討ち、淀に転戦した。慶應四年(1868)二月には東海道鎮撫総督先鋒として江戸に入り、次いで白河、二本松を転戦し、若松城攻撃にも参加した。明治四年(1871)、御親兵として上京し、明治七年(1874)には陸軍大尉に任じられた。西南戦争では、近衛第一連隊第三大隊長心得として従軍し、田原坂、植木で勇戦し、四月には陸軍少佐に進んだ。明治十年(1877)八月十八日、日向可愛岳を包囲中、頭部を銃丸に貫かれて戦死した。二十八歳。
(細島みなと資料館)
細島みなと資料館
現在細島みなと資料館となっている建物は、旧高鍋屋旅館の建物で、大正十年(1921)の建築とされる木造三階建て建築である。
それまでは高鍋屋の屋号が示すように、旧高鍋藩の参勤交代時の休息用の座敷があった御仮屋であった。迫田少佐が所持していた拳銃などが展示されている。
(黒田の家臣)
黒田の家臣
黒田の家臣と呼ばれているが、実際に筑前秋月黒田藩士は海賀宮門(かいがくもん)一人で、ほかの二名は肥前の中村主計と但馬の千葉郁太郎である。
この三人は、文久二年(1862)の寺田屋事件で捕らえられ、薩摩へ移送中に古嶋周辺にて斬殺された。海賀宮門の腹巻に「平生心事豈有他赤心報国唯四字 黒田家臣 海賀直求」とあったことから、この場所を「黒田の家臣」と呼ぶようになったとされている。向かって左から「贈正五位千葉郁太郎嘉種墓」「海賀直求之墓」「肥前中村主計重義之墓」である。
赤心報國之碑
傍らにたつ赤心報国碑は、大正三年(1914)の建碑。元帥山県有朋の揮毫。
黒田の家臣の周囲は、浅瀬になっており磯遊びが楽しめる。たくさんの家族連れが来遊されていた。
日向岬
黒木庄八翁之碑
黒木庄八は、この地に流れ着いた三人の遺体を発見し、手厚く葬った細島の人である。以来、黒木家が代々墓守を勤め、三人の遺体を発見した五月四日には毎年黒木家の手により法要が開かれている。
田中河内介父子慰霊土埋設之碑
黒木庄八翁の碑の隣には、田中河内介父子(息子は瑳磨介)の慰霊碑も建てられている。田中河内介も寺田屋事件の後、捕らえられ薩摩藩により斬殺された。彼らの遺体は小豆島で発見されている。
(美々津共同墓地)
日向市美々津支所に隣接する美々津共同墓地に西南戦争の戦没者が葬られている。墓の主である細谷卓良警部補は、若狭国遠敷郡西津村(現・小浜市)の出身。傍らの石柱には滋賀県となっているが、福井県の誤りであろう。
故一等警部補細谷卓良之墓
(耳川)
耳川の中州に「西南戦争激戦の地」と記された巨大な碑が建っている。以前十年ほど前に日向を訪れた際には、JRの車内からこの碑を写真に収めることに成功したが、今回来てみると、碑の建っている中州は背の高い樹木に被われ、辛うじて「西」という文字がその隙間から見えたのみであった。
西南の役激戦の地碑
耳川橋梁
(菅原神社)
菅原神社
西南之役戦没者慰霊之碑
延岡市幸脇の菅原神社境内には、西南戦争戦没者慰霊碑がある。
昭和五十四年(1979)に建てられた比較的新しいもので、当時の鹿児島県知事鎌田要人の書。
(福瀬神社)
福瀬神社
この辺りも耳川の戦いで激戦地になった場所である。耳川を挟んで美々津から鳥川、福瀬、山陰に至る広範な場所で戦闘が交わされた。耳川の北側は薩軍が陣を構えていたが、福瀬神社は薩軍屯所跡と伝えらえる。
(西郷南洲翁家来の墓)
行年二十四才 高木岩三郎墓
明治十年(1877)に起きた西南戦争の戦死者高木岩三郎の墓である。熊本城の攻防戦に続き田原坂の戦いで敗れた西郷軍は、各地で戦闘を繰り返しながら撤退し、日向においても耳川北岸を天然の要害として陣取り、対岸の官軍と激しい戦闘を行っている。日向市東郷町では、小野田地区や福瀬地区など各地に陣を張って備えていたが、美郷町(南郷区)から進出してきた部隊が冠嶽から対岸の小野田地区へ砲撃を開始し豪雨で増水した耳川で対岸の船を奪って次々と渡河に成功すると、西郷軍は大谷川をはさんだ柿ノ木田越の陣にて奮闘したが、次第に追い詰められ富高へ敗走している。
この墓に眠る高木岩三郎は、福瀬地区出口へ逃げ込んだところ、官軍の厳しい残党狩りにあい逃亡を図って銃殺されたと伝えられており、現在でも地区住民の方から手厚く供養されている。
高木岩三郎なる人物が、本当に西郷隆盛の直接の家来だったのかどうかは疑わしい。ただし、墓の側面には「西郷南洲翁家来の墓」と明記されている。
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