史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

水戸 城西

2009-08-01 19:25:04 | 茨城県
(祇園寺)


祇園寺

 八幡町の祇園寺は、徳川光圀(黄門)が元禄五年(1692)に開設したという曹洞宗の寺院である。
 墓地の入口に水戸戊辰殉難慰霊碑が立っているが、これは幕末に殉難した諸生党の鎮魂碑である。そばにある由来を読むと、水戸諸生党に関係する石碑は、千葉県八日市場(匝瑳市)、新潟県西山町にもあるらしい。


水戸戊辰殉難慰霊碑

 諸生党は、幕末天狗党と激しい抗争を繰りひろげた。その惨劇の極致が敦賀での大虐殺である(353人が処刑)。会津戦争と並ぶ幕末史に残る悲劇である。天狗党の最期に目が行きがちであるが、戊辰戦争がはじまると諸生党に対する征討令が発せられ、天狗党残党らは親の仇とばかりに諸生党討滅に取り掛かった。諸生党は水戸を脱し、一時北越や会津を転戦したが、ここでの戦闘が新政府軍の勝利に終わると、再び水戸に戻って水戸城を攻撃した。さらに転戦を続けたが、終に下総八日市場で壊滅した。


市川三左衛門の墓

 諸生党の首領である市川三左衛門は、文化十三年(1816)に水戸藩士市川三左衛門弘教の息子として生まれ、天保十四年(1843)、家督を継いだ。歩兵頭を皮きりに小姓頭、用人、新番頭、書院番頭と藩の要職を歴任した。安政六年(1859)、安政の大獄それに続く密勅の返納問題を巡って内訌が激化すると、大寄合頭として改革派の鎮圧に努めた。やがて家老に昇進すると、佐幕派諸生党の首領として天狗党と激しく対立した。天狗党を駆逐して藩政の実権を握るが、戊辰戦争で形勢が逆転する。市川三左衛門は同志とともに会津に走ったが、間もなく水戸に戻って弘道館に拠り水戸城を攻撃したが、結局は敗れて下総八日市場まで敗走して、そこで壊滅した。三左衛門は江戸まで逃れて潜伏したが、明治二年(1868)四月、水戸の捕吏に捕縛されて、水戸に連行された。生き晒しの上、水戸城外長岡原で逆磔の刑に処された。五十四歳であった。


朝比奈弥太郎の墓

 朝比奈弥太郎は、市川三左衛門と並ぶ諸生党の首領である。代々弥太郎を襲名しており、文政元年(1818)に家督を継いで嘉永六年(1853)まで藩の重職にあったのは、父朝比奈泰然である。父の死後、家督を継いだのは次男泰尚である。市川三左衛門とともに天狗党を弾圧し、一時藩政の実権を握ったが、明治二年(1868)、水戸を追われて、下総八日市場の戦闘で養子(兄の遺児)泰彙とともに討ち死にした。


贈正五位木村権之衛門墓

 木村権之衛門(ごんのえもん)は、文政七年(1824)の生まれ。戊午の密勅降下以来、有志の間を奔走した。安政の大獄が始まると、高橋多一郎と出府し薩摩藩らと挙兵除奸を計画した。万延元年(1860)正月、再び出府して有村次左衛門ら会合し、出兵の盟約を結んだ。大老襲撃後の三月二十六日、上阪したが、薩摩側の事情が一変し、捕吏の探索を避けて四国に逃れた。その後、東下して老中安藤信正要撃を企てたが、捕吏が迫ったため仙台から袋田へ潜伏した。文久二年(1862)帰藩し、許されて弘道館勤務となったが、翌年三月、四十歳にて病死した。

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