(青山霊園つづき)

肝付家累代之墓
肝付兼行閣下墓碑
肝付兼行は嘉永六年(1853)の生まれ。明治初年、北海道開拓使に出仕し、測定分野で頭角を現した。水路局に転じ、測量課副長、量地課長を務めた。この時、港区阿麻布台において海軍観象台の地点を測定し緯度を測定した。これが我が国における電信測定の嚆矢となった。その後、海軍水路局の測量課長、さらに水路部長に就任した。柳楢悦とともに東京数学会社に参加した。明治三十七年(1904)、海軍大学校長を兼任。翌明治三十八年(1905)、海軍中将。大正十一年(1922)没。
墓の傍らに水路会員により顕彰碑が建てられている。1種ロ3号6側

Henry Spencer Palmer
ヘンリー・S・パーマーは、1838年、イギリス領インド帝国のバンガロールに生まれた。明治十六年(1883)、来日。神奈川県より横浜上水道建設計画の依頼を受け、三か月で実地測量から計画まで完成させ、一旦帰国した。翌年、神奈川県から再度招聘され、明治十八年(1885)、大佐として再来日。水源を相模川支流の道志川とし、野毛山排水池に至る全長48キロメートルの横浜水道建設を指揮した。明治二十年(1887)、二年に及ぶ工事を完成させた。その後も日本に残り、内務省土木局名誉顧問技師として、勅任官の待遇を受け、横浜築港計画を指揮。関東水道会社の計画や各地の港湾設計などにも関与した。明治二十三年(1890)には日本人女性斉藤うたと結婚し娘をもうけたが、明治二十六年(1893)、脳卒中により急死した。外人墓地

肝付家累代之墓

肝付兼行閣下墓碑
肝付兼行は嘉永六年(1853)の生まれ。明治初年、北海道開拓使に出仕し、測定分野で頭角を現した。水路局に転じ、測量課副長、量地課長を務めた。この時、港区阿麻布台において海軍観象台の地点を測定し緯度を測定した。これが我が国における電信測定の嚆矢となった。その後、海軍水路局の測量課長、さらに水路部長に就任した。柳楢悦とともに東京数学会社に参加した。明治三十七年(1904)、海軍大学校長を兼任。翌明治三十八年(1905)、海軍中将。大正十一年(1922)没。
墓の傍らに水路会員により顕彰碑が建てられている。1種ロ3号6側

Henry Spencer Palmer
ヘンリー・S・パーマーは、1838年、イギリス領インド帝国のバンガロールに生まれた。明治十六年(1883)、来日。神奈川県より横浜上水道建設計画の依頼を受け、三か月で実地測量から計画まで完成させ、一旦帰国した。翌年、神奈川県から再度招聘され、明治十八年(1885)、大佐として再来日。水源を相模川支流の道志川とし、野毛山排水池に至る全長48キロメートルの横浜水道建設を指揮した。明治二十年(1887)、二年に及ぶ工事を完成させた。その後も日本に残り、内務省土木局名誉顧問技師として、勅任官の待遇を受け、横浜築港計画を指揮。関東水道会社の計画や各地の港湾設計などにも関与した。明治二十三年(1890)には日本人女性斉藤うたと結婚し娘をもうけたが、明治二十六年(1893)、脳卒中により急死した。外人墓地
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