史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

十津川 Ⅳ

2018年06月16日 | 奈良県
(川津)
 七年振り二回目の十津川となった。さすがに十津川村に行くには宿泊が必要である。片端から電話を入れてみたが、GW中のこと故、空きがなく、車中泊も已む無しかと諦めかけた。最後に観光協会に紹介していただいた十津川温泉の「やまとや」はあっさりと予約ができた。
 五月といえ、十津川の朝は靄が発生するほど激しく冷え込み、とてもでないが車の中では安眠できなかったであろう。
 前回の訪問で回り切れなかった史跡を精力的に訪問した。最初は、川津の野崎主計の墓である。新川津大橋を渡って右折、百五十メートルほどいった山裾の墓地に野崎家の墓がある。自然石で建てられた一際大きな墓が主計のものである。


野崎主計正盛墓

(風屋共同墓地)


竹下熊雄之墓

 風屋の集落の一段高い共同墓地に竹志田熊雄の墓がある。周辺に民家が数軒あるが全く人の気配がない。大きな体をした野猿が三匹、民家の屋根から電線を伝って移動中であった。「こいつらに襲われたら勝ち目はないな」と思いながら、墓を探した。

 竹志田熊雄は玉名郡大浜の出身。初め松村大成に学び、のち林桜園について国学を修め、尊攘思想を抱いた。文久三年(1863)、同志とともに中山忠光を奉じ、大和五條に挙兵。敗れて吉野十津川に入ったが、病のため死亡した。腸チフスだったという。年二十一。墓には「竹下」とあるが正確には「竹志田」である。

(笹の滝)
 日の出前に宿を抜け出し笹の滝を目指す。笹の滝入口に着いたのは朝の五時二十五分であった。さすがにほかに誰もいない。
 宿に引き返して朝食をいただき、精算を済ませて七時十五分には出発。龍神街道と呼ばれる国道425号線を四十キロメートル以上、ひたすら和歌山県龍神村(現・田辺市)に向かって走る。根気と体力を要するドライブであった。
 今回の奈良県史跡探訪はここまでであったが、まだ県下の天誅組関係史蹟は残っている。最低でももう一回、奈良県史跡の旅を計画したい。


笹の滝入口


伴林光平歌碑


笹の滝

 笹の滝は、日本の滝百選にも選ばれている滝である。このところ雨らしい雨は降っていないが、それでも相当な水量であった。

 文久三年(1863)、十津川を脱した伴林光平らは滝川から笹の滝を通って北山郷に達した。笹の滝の入口には、この時伴林光平が詠んだ詩が刻まれている。

 世にしらぬあはれをこめてしぐるらん
 小笹瀧のありあけの月

(十津川護国神社)


十津川護国神社

 十津川護国神社は、幕末以来の戦乱で亡くなった十津川出身者を祀る神社である。境内には名前を刻んだ戦没者の碑がある。中井庄五郎や深瀬繁里、野崎主計(この碑では正盛)ら、知った名前もあるが、幕末の騒乱に命を捧げた無名の十津川出身者の多いことに感銘を受けた。


戦没者の碑


陸軍大将 荒木貞夫終焉之地

 十津川護国神社の鳥居の横に陸軍大将荒木貞夫終焉の地と書かれた石碑が建てられている。天誅組と二・二六事件の類似性に興味をもっていた荒木大将は、昭和四十一年(1966)、十津川村を訪れて南朝や天誅組の古文書などを塾覧し講演を行った。その日の夜、宿泊していた十津川荘で心臓発作を起し急逝した。享年八十九。この石碑は、没後一年の昭和四十二年(1967)も建てられたものである。書は佐藤栄作。

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