史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

南牧

2016年11月20日 | 群馬県
(慈眼寺)
 下仁田から南下すると、南牧村に至る。さらにこの道を南に進むと、あの日航機が御巣鷹山に墜落したことで全国に知られることになった上野村がある。
 南牧村は川沿いにわずかに集落が形成されている寒村である。幕末はもっと人口密度は低かったであろう。彰義隊副隊長天野八郎は、甘楽郡磐戸村(現・南牧村)の出身である。慈眼寺に天野八郎の墓を訪ねた。


慈眼寺


天野八郎忠告之墓

 天野八郎の墓は、慈眼寺本堂の左手の大井田家の墓域にある。天野八郎は幼名を林太郎といい、天保二年(1831)、大井田吉五郎忠恕の二男に生まれた。長じて天野家を継ぎ、天野八郎と名乗った。江戸に出て多くの志士を交わったが、次第に佐幕的傾向を強め、慶応三年(1867)、大政奉還により徳川慶喜が将軍を辞すと、彰義隊を組織し、一橋家の重臣渋沢成一郎を隊長に、八郎は副隊長となって東叡山上野に立て籠もった。官軍との戦闘の末、戦況利なく、奉じていた輪王寺宮を微行させるとともに、残隊は潜行した。慶応四年(1868)七月十三日、八郎は本所鉄砲師炭屋文次郎宅にて食事中に官軍に襲われ額に銃弾を受けた。同年十一月八日、獄中死。享年三十八。
 当時、小塚原の叢中に葬られたが、後に同志が小石川円通寺に改葬し、「顕彰院誼道」の法名が送られた。大正六年(1917)、五十回忌に当り、郷里の菩提寺に分骨墓碑が建立された。側面の墓碑三百字に及ぶ長文で、彰義隊の生き残り本多晋による。花立てには、八郎自筆の「壮膽如斗」が刻まれている。


「壮膽如斗」


天野八郎辞世碑

 碑に刻まれた辞世句。

枯尾花 倒れたそよぎ 止むにけり

(天野八郎生家)
 慈眼寺を出て、磐戸の集落の中(ちょうど磐戸神社の向い側辺り)に天野八郎の生家跡がある。当時の建物は残っていない。


天野八郎生家跡
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3 コメント

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Unknown ()
2017-07-24 22:40:11
植村さま
お世話になっております
お盆休みに群馬方面を計画していますが、天野八郎の生家跡に標柱的なものはありますでしょうか
植村さんの写真を基にグーグルマップで見てみたしたが見当たらないようでした
返信する
天野八郎生家跡 (植村)
2017-07-25 08:14:43
竹 様

標柱あるいはそれに準ずるようなものはありません。大井田という姓だけが目印です。
群馬県の旅の成果を楽しみにしています。
返信する
Unknown ()
2017-07-25 23:11:22
植村さん
情報ありがとうございます!

今後お互い情報交換できるように差し支えなければ私のサイトのメールホームからメールいただけると嬉しいです
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