史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

かすみがうら Ⅲ

2017年09月08日 | 茨城県
(田伏)


碩学勤王家宮本中務墓
儒醫 服部本英墓
志士 太宰清右衛門墓
従是西一丁右折約一丁

 かすみがうら市田伏は、宮本主馬之助の出身地である。田伏の民家の前に右の石碑を発見した。この近くに宮本中務、服部本英、太宰清右衛門の墓があることを示している。
 早速、辺りを歩いて探したが、廃校となった小学校の近くで服部本英の墓を発見したに終わった。


(鹿島神社)


鹿島神社

 天狗党に参加した宮本主馬之助の養父宮本中務は田伏村の鹿島神社の祠官であった(かすみがうら市田伏1613)。
 宮本主馬之助は、文政十二年(1829)、水戸市吉田村東台の戸村家次男に生まれた。十六歳の時、宮本中務の養子となった。中務は国学に優れ、近くで塾を開いていた服部本英の漢学に対し、国学の中務と呼ばれていた。水戸城下から遠く離れた田伏でも、尊王攘夷の精神は強く、同志竹内百太郎、岩谷敬一郎、太宰清右衛門らとともに勅諚の返還に断固反対するため長岡に集結し、攘夷の決行を迫って江戸の薩摩藩邸に訴えた。そのため二年余りを牢獄で過ごすことになった。文久二年(1862)十二月、赦されて帰郷した。慶応四年(1868)一月、小石川藩邸に入ると、同年三月、国許の奸徒(市川ら諸生党)追討のため藩地に下り、戦闘に参加した。下総八日市場の松山にて追討戦で勝利を収め、さらに市川残党の捕縛のため江戸に出た。維新後は神官などを務めて、明治七年(1874)、四十五歳で病没。

鹿島神社には、文久元年(1861)に小松崎周助と高崎半助の二名が奉納した算額が保存されている。算額は、和算家が解決した算問の解き方を額に書いて神社仏閣に奉納したものである。茨城県内には関流が多いが、これは太白流である。


田伏鹿島神社算額

 私が鹿島神社を訪れた時、ちょうど夏祭りの最中で、大音声でのカラオケ大会が始まるところであった。そこにカメラを持ったオッサンが出現し、村人には異質に映ったことだろう。ある酔っ払いが「おい、どこのカメラマンや、NHKか」と声をかけてきたので「いや、個人的なものです」と答えて、その場を切り抜けたが、せっかく地元の人がいたので、宮本中務や太宰清右衛門の墓の場所を聞いておけば良かった。ま、酔っ払いばかりで、聞いても期待した答えがもらえたかどうかは分からないが。

(服部本英墓碑)


雲堂先生之墓碑

 服部本英は、文化三年(1806)の生まれ。代々が医者の家系で、医学を塩田揚庵、学問を関口備明、太田錦城に学んだ。小川郷校稽医館にも出入し、医術の研鑚に努めるとともに、自ら郷校の世話役をして運営にも参加した。潮来の宮本茶村、斎藤晩晴らとともに「水南の三哲」と称えられた。
 弘化元年(1844)、水戸藩主斉昭が幕府より蟄居を命じられた際には、同志六人で連署の嘆願書を江戸麹町の紀州家役所に差し出したが、同年十一月、斉昭の謹慎が解かれたため、表には出なかった。元治元年(1864)の筑波山挙兵には、太宰清右衛門とともに留守居役として小川館に残り、後方支援に努めた。しかし、一部の隊員から強引かつ野蛮な方法で資金調達に走る者が出たため、幕府の追及の目は天狗党当事者のみならず、後方で支援する者にも及んだ。本英らが一時自宅近くに身を潜めていたが、逃れられないことを知り自首した。安食村の朝日太郎とともに水戸に護送されている途中、水戸が天狗党と諸生党の内乱状態にあったため、途中の田余村高崎台(現・玉里村高崎)にて急遽処刑され、首は長岡の刑場にさらされた。

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