史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

新島

2015年01月01日 | 東京都
 新島は東京から南へ約百六十㎞の海上に浮かぶ、伊豆諸島の一つである。竹芝桟橋から大型客船で片道約十時間の船旅となる。十時間もあればアメリカやヨーロッパまで行ける。そう考えれば都内から随分と離れているように思われるが、これでも立派な東京都下なのである。ちょっと不思議だが、島内を走る自動車は、みな品川ナンバーである。
 旅行客やサーファーが集中する夏場は避けて、寒くなるのを待った。十一月の中旬、天気が良いのを見計らって二等和室(要するに雑魚寝部屋)を予約した。
 この時期でも往きの船は満席であった。釣り人やトライアスロン大会に参加する人など、乗客は様々である。


サルビア号

 大型客船サルビア号は、竹芝桟橋を夜の十時に発つ。横浜を経由して、翌朝には伊豆大島に到達する。船内で毛布を貸してもらえる(百円)が、床が固くて決して寝心地は良くない。夜遅くまで騒いでいる若者もいるし、大きなイビキをかくオッサンもいるので、二等船室で安眠を求めるのは無理というものである(他人の迷惑を顧みず、大イビキをかく側にならなければならない)。
 これまでも佐渡島や小豆島等、島の史跡にチャレンジしてきたが、常に悩みの種は船酔いであった。
 外洋に出ると途端に波が荒くなる。かなり船は揺れたが、船に弱い私は今回も酔い止めを飲んでいたので、へばることなく十時間の航海を乗り切ることができた。
 新島には午前八時二十分に到着した。さすがに常春の島と呼ばれるだけあってこの時期でも寒くはないが、海からの風が強烈である。この風もいつものことらしい。
 早速、観光案内所で荷物を預け、レンタルサイクル(一日千五百円と少々割高)を手に入れて、出発となる。私が島で過ごせる時間は、三時間しかない。効率よく回らなければならない。


新島
正面に見えるのは新島最高峰の宮塚山(472m)である

(相馬主計の碑)
 勤労福祉会館の横に新選組最後の隊長相馬主計の碑が建立されている(新島村本村5‐6‐1)。


相馬主計の碑

 さながらに そみし我が身は
わかるとも 硯の海の 深き心ぞ

 相馬主計は、常陸国笠間藩士で、天保十四年(1843)の生まれ。文久三年(1863)、新選組隊士募集に応じて平隊士となった。鳥羽伏見に敗れた新選組は、その後、甲州、宇都宮、会津と各地を転戦するが、敗れて箱館に集結した。明治二年(1869)五月十一日、土方歳三が銃弾に倒れ、これを受けて新選組隊長を命じられたことから、相馬主計は新選組最後の隊長と呼ばれる。ほどなく榎本軍は全面降伏し、相馬は坂本龍馬暗殺の嫌疑等により新島に終身流刑となった。現地では寺子屋を開いて近隣の子弟の教育に当たり、島民に慕われたという。島の娘マツ(植村家)と結婚し、相馬自身もこのまま新島に骨を埋める覚悟であったろう。しかし、明治五年(1872)、流刑制度の廃止により、赦免され同年十月島を出ることになった。石碑に刻まれる歌はこのとき別れを惜しんで詠んだものである。


主計の扇子碑

 明治三年(1870)流刑となった相馬主計は、刀の代わりに常に扇子を腰に差し、姿勢を崩すことなく毅然としていたという。
 東京に戻った相馬は鳥取県知事に推挙されたが、元新選組隊士の困窮を見て「楽な道は選ばない」と辞退した。
 明治六年(1873)、主計は東京の自宅で自ら命を絶った。その理由は不明である。

(向畑刑場跡)
 新島は流島の地であった。刑場跡や牢屋跡、流人墓地等が街中に点在している。


向畑刑場跡

 寛文八年(1668)から明治四年(1871)までの約二百年の間に新島に流刑となった者は、「新島流人帳」によれば千三百三十三人に及ぶ。彼らは島で罪を重ねると死罪となった。記録によれば処刑された罪人は十一人を数える。
 罪人が再犯すると、島役所では早船を仕立てて年寄を江戸代官所まで届け出る。判決が令達されるまでの間、罪人は投獄され、牢番をつけ、食事も供与した。この間の経費を節減するため食事を与えず「病死」として処理することもあったという(新島村本村3‐8付近)。


処刑された流人の墓

 無縁塔の背後には、刑場で処刑された罪人の墓が並んでいる。その中には「お富さん」で有名な蝙蝠の安の墓もある。


自緑信士(蝙蝠の安の墓)

 蝙蝠安のモデルといわれる山口瀧蔵は、上総木更津の油屋の息子に生まれたが、生来の道楽が成年とともに長じ、果ては家を飛び出し、ゆすり、かたりと悪の深みにはまり、遂に捕えられて、嘉永五年(1853)三月、新島に流された。服役三年の末、嘉永七年(1855)牢死、四十三歳という記録が残る。


謎の榎

 寛政十年(1789)十一月、流人清右衛門が処刑されるとき、清右衛門は自分の無実を叫び、その証として法燈塚に榎を生やすと言い残して死んだ。その後、間もなくここに榎が生えてきたので、その霊を慰めるため墓石も建てられることになった。左手の墓石には「妙法啓岸霊位」と刻まれている。

(流人牢屋跡)


流人牢屋跡

 島で重罪を犯した流人が、判決の出るまでの間、入れられた牢屋跡である。古文書によれば、牢は間口二間(約三・六メートル)、奥行きも二間、高さ六尺五寸(約一・九七メートル)で、内側の土間には足枷用の丸太が置かれていたという。処刑の日には、筵の上に受刑者を座らせて酒と団子が与えられた。これが知人らとの最期の別れであった(新島村本村4‐1付近)。

(長栄寺)
 長栄寺は、室町時代に開かれたという古い歴史を持つ日蓮宗の寺である(新島村本村3‐1‐4)。因みに新島は、一島一宗である。


長栄寺


長栄寺山門の金剛力士像

 長栄寺の墓地には、この島特有のきめの細かい白砂が敷かれているのが特徴である。墓地内に流人墓地や、竹居の吃安の島抜けの際に殺害された名主吉兵衛の墓、上平主税の歌碑などがある。


流人墓地

 新島に流された流人千三百三十三人のうち、赦免六〇五人、病死六五五人とされる。通常、流人が亡くなると、長栄寺の流人墓地に埋葬された(死刑や牢死者は、向畑刑場に葬られた)。埋葬者の情報は、今となっては分からないものが多いが、茶碗型やサイコロ型の墓石があり、被葬者の生前の嗜好などを連想することができる。


上平主税の歌碑

 墓のような形をしているが、歌碑である。背面に上平主税の次の歌が刻まれている。

大君の恵みにもれぬ民なれば
あしきをよきに かえせ罪人(つみびと)

 上平主税(かみだいらちから)は、十津川郷士で、明治三年(1870)新政府参議横井小楠暗殺に関わったとして、四十七歳のとき新島に流された。その頃、島で天然痘が大流行して多くの死者が出た。上平は惨状を見かねて「種痘自訴状」を足柄県庁に提出し、人命救済に尽力した。また、島民に産婆術を教え、寺子屋を開いて子弟の教育にも貢献した。赦免後もしばらく島にとどまり島民のために尽くした。のちに故郷に戻り玉置神社の神官となった。明治二十四年(1881)、死去。六十八歳。


名主吉兵衛の墓

 側面に「名主吉兵衛」とある。嘉永六年(1853)六月、竹居の吃安ら六人は島抜けの際、仲間二人と出刃・竹槍を携えて名主吉兵衛宅を襲い、鉄砲の引き渡しを迫った。断固拒否した吉兵衛は殺され、孫の弥吉も重傷を負った。吃安らは鉄砲二挺を強奪して逃走した。さらに船を奪い、水先案内に漁師二人を拉致して、脱走に成功した。吃安は郷里に戻っていたが、捕らわれて処刑された。

(新島村博物館)


新島村博物館

 新島村博物館は、石造りの堅牢な建物であるが、この石材は新島特産の抗火石(コーガ石)である。街の中でもコーガ石で造られた蔵を見ることができる。


博物館の展示

 この博物館は、街から少し離れた丘の上にあるが、流人の歴史の展示が充実しており、そちらに興味があれば行ってみる価値はある。入館料大人三百円(新島村本村2‐36‐3)。



「流人の肖像」コーナー

(湯の浜露天温泉)


湯の浜露天温泉

 さて、ここまで史跡を訪ねてきて、少し時間が余ったので、湯の浜温泉に立ち寄ることにした。船の発着する港の近い海岸にある温泉で、入浴には水着が必要である。こういうこともあろうかと、このために海水パンツを持参してきた。船の出発時間が迫っていたので温泉に入れたのはたったの十五分であったが、碧い海を眺めながら浸る温泉は最高であった。前日からの強行軍の疲れを癒すには十分であった。

 帰りの船は、往きと違ってガラガラであった。恐らく新島滞在時間三時間という乗客は一人だけであっただろう。横浜を過ぎると二等船室和室には私を含めて二人だけとなってしまった。日本の鉄道が非常に時間に正確に運行されていることは世界中に驚嘆の目で見られているが、船も負けていない。定刻に寸分の遅れもなく竹芝桟橋に到着した。

 実は東京都の島嶼部の史跡という意味では、小笠原諸島父島にも咸臨丸乗組員の墓がある。行ってみたいのはやまやまだが、新島以上にアクセスが障壁となる。父島には片道二十五時間。しかも現地に最低でも三泊はせねばならないし、新島のように空路という選択肢もない。非常にハードルが高いがいつか実現したいものである。

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