史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

広尾 Ⅱ

2014年05月05日 | 東京都
(祥雲寺)


太陽院殿前甲州刺史春窓宗華大居士
(黒田長義の墓)

 筑前秋月藩十一代藩主黒田長義の墓である。長義は万延元年(1860)、父の隠居に伴い家督を継いだ。しかし、わずかその二年後十六歳の若さで病死。


濱野定四郎墓

 濱野定四郎は、中津藩士。元治元年(1864)、帰郷した福沢諭吉に伴われて出府、慶応義塾に入塾した。明治十一年(1878)、慶應義塾の塾長に選ばれた。明治四十一年(1908)退職。翌明治四十二年(1909)死去。享年六十六。


織田家之墓

 大和柳本藩主織田信成の墓である。文久三年(1863)八月の天誅組の挙兵では鎮圧のために兵を送っている。慶応四年(1868)五月、病のため家督を実弟信及(のぶひろ)に譲った。明治三十一年(1898)、五十七歳にて死去。

(香林院)


香林院

 香林院は、大給松平家の菩提寺として寛文五年(1665)に建立されたもので、開基は大給亘の先祖、真次の法名に因んで香林院と名付けられた。大給亘の墓は祥雲寺の墓地にある。

(東北寺)


東北寺

 東北寺は、佐土原島津家の江戸における菩提寺である(渋谷区広尾2‐5‐11)。本堂の裏の少し小高くなっている丘の上に島津家の墓地がある。


従二位勲二等島津忠寛之墓

 最後の佐土原藩主島津忠寛の墓である。戊辰戦争が始まると、宗藩に従って新政府軍に兵を送った。戦後、賞典禄三万石を下賜されている。明治二十九年(1896)死去。六十九歳であった。


従二位勲三等伯爵島津忠亮之墓

 島津忠亮は、忠寛の長男。明治二年(1869)にはアメリカに留学している。明治十二年(1879)、初代赤坂区長。その後、貴族院議員などに就いた。明治四十二年(1909)没。


島津啓次郎之墓

 島津啓次郎も忠寛の子であるが、庶子(非嫡出子つまり妾の子)であった。司馬遼太郎先生は「この事情が、たださえ性格が矯激で頭のいいこの少年の中に、激しやすい心を育てた。」(『翔ぶが如く』(地鳴))と評している。勝海舟の推薦を受けて、明治三年(1870)、薩摩藩の藩費留学生としてアメリカに留学した。明治九年(1876)九月、帰国。西南戦争が勃発すると、島津啓次郎は佐土原隊二百を率いて参戦した。欧米社会を経験して当時の最先端の知識を吸収した啓次郎が、薩軍に身を投じた理由は明らかではない。薩軍が必ずしも士族の復権を主張する保守的な集団ばかりではなく、様々な思惑を持つ集団であったことの一つの証左である。島津啓次郎は、最後まで薩軍と行動を共にし、城山で戦死している。しかしながら、官軍兵士は薩軍戦死者の遺体を膾のように切り刻んだため、彼の遺体は特定されなかったという。近くに島津家の家紋の入った刀があった遺体を啓次郎のものとして浄光明寺墓地(現・南洲墓地)に埋葬した。年わずかに二十一であった。


遊川家之墓(樺山久舒の墓)

 東北寺の樺山久舒(かばやまひさのぶ)の墓を探して、三度東北寺墓地を歩いた。なかなか発見できないのも道理で、樺山久舒は遊川家の墓に合葬されている。傍らの墓誌に「功岳院道安高舒大居士」という久舒の戒名と没年月日が記されている。
 樺山久舒は、天保五年、日向佐土原に生まれた。嘉永六年、藩公島津忠寛に出仕した。文久三年(1863)には生麦事件の解決のため、薩摩藩の重野安繹らとともにイギリス公使を相手に折衝を重ねた。戊辰戦争では隊長として佐土原藩兵を率い、鳥羽伏見から上野戦争、会津攻城戦まで戦った。維新後は佐土原藩権第参事。明治十一年(1878)には上京して検事となった。明治四十五年(1912)、八十一歳にて死去。

(法雲寺)
 法雲寺には、勝海舟門下で米国留学を経験し、外交官として活躍した高木三郎の墓があるというので法雲寺墓地を歩いた。高木家の墓地は二つあったが、高木三郎が葬られているのは、墓地北側に位置する横長の墓である。


法雲寺


高木家之(高木三郎)墓

 高木三郎は庄内藩主の次男に生まれ、幼少より俊秀の評判が高く、世子酒井忠恕の相手役をつとめた。安政六年には藩命により海軍操練所に入学し、のちに塾頭となった。慶応三年(1867)にはアメリカへ留学。維新後、ニューヨーク領事など外交官として活躍した。明治十三年(1880)に外務省を辞し、横浜同伸会社の取締役に就き、生糸の販路開拓、養蚕製糸の改善に尽くした。明治四十二年(1909)六十九歳で死去。

(麻布学園)


江原素六先生像

 全国でも有数の進学校として知られる麻布学園は、江原素六が明治二十八年(1895)、麻布中学校を創立し、自らその校長に就いた。江原素六は寮内で生徒と寝食をともにするなど、青年教育に全力を傾注した。大正十一年(1922)、麻布中学校生三百人と箱根に遠足した三日後、脳溢血で死去した。享年八十。
 学校に入ると、すぐの場所に江原素六の胸像がある。


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