史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末武士の失業と再就職 紀州藩田辺詰与力騒動一件」 中村豊秀著 中公新書

2019年12月28日 | 書評

これも古本。こうして古本を読んでいると、少なくとも新書に関しては、昔の本の方が余程力作そろいなのではないかと思う。最近の新書は、やや粗製乱造の傾向がある。

本書は、紀州藩田辺に居住する横須賀組(横須賀党、横須賀衆といった呼び方もあるらしい)と呼ばれる与力一統を襲った受難とそこからの復帰運動を描いたものである。俗に田辺与力騒動を呼ばれる。安政二年(1855)六月八日、彼らに突然十七箇条にわたる支配替えの通達をつきつけたのは、紀州藩筆頭家老にして田辺城主安藤飛騨守。これを直接伝えたのは城代家老安藤小兵衛であった。田辺与力たちの苦難はここから始まった。

横須賀組は、もとは家康の直臣で、数々の合戦、なかでも大阪冬の陣、夏の陣で武功があったという。戦後、家康の命により紀州藩を興した家康九男頼宣の家臣として田辺に入った。従って、彼らは「家康の命により南龍公の直臣となった」という強いエリート意識を持った集団であり、紀州家の付家老となった安藤家としてみれば、「目の上のたん瘤」的な存在であった。安藤家からの通達は、二百年以上も続いていた捻じれた関係を一挙に覆そうというものであった。当然ながら、田辺与力一統は猛反発した。

与力一統は、田辺安藤領に付けられた際には三十六家を数えたが、時代の変遷とともに数を減らし、安政二年時点では二十二家となっていた。

彼らは、結束して家康以来徳川直臣の家柄である証拠書類をもって安藤家と執拗に戦ったが、交渉決裂。速やかに田辺を退散して浪人となった。彼らのこの時の進退は鮮やかでもある。

その後、老年余りの浪々生活の末、一統は復帰成功を勝ち取る。時に文久二年(1862)のことであった。

その間、紀州藩では政争の末、十四代将軍を送り出した。家茂擁立に功のあった水野忠央(紀州藩付家老・新宮藩主)は一時絶大なる権力を握ったが、万延元年(1860)の桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺されると、たちまち失脚して隠居し、新宮に逼塞することになる。慶應二年(1866)の第二次長州征伐には、藩主茂承が総督を命じられるなど、御三家の一つである紀州藩も激動の政局とは無縁ではなかった。田辺与力一統の復帰運動は、中央や紀州藩の政局とはまったく無関係ではあったが、熱心かつ執拗に行われた。ついには、紀州藩菩提寺長保寺の海辯和尚や、将軍後見職にあった一橋慶喜を動かし、帰参を勝ち取ることができた。彼らの帰参運動のモティベーションは単に生計を旧に戻したいということではなく、「武門の意地」であったろう。封建社会でしか通用しない価値観かもしれないが、生活を犠牲にしてまでも意地を通そうという姿には現代の日本人の心も動かされるものがある。

維新後、彼らは松阪で合資会社苗秀社を立ち上げ、資産を運用した。驚いたことに、苗秀社は今も継続しており、松坂御城番長屋には今も与力の子孫の方が住んでいるのである。つい先日、松阪を訪れたばかりであるが、また行きたくなってしまった。

 

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