史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「軍神」 山室建徳著 中公新書

2019年12月28日 | 書評

先日、宗教学者の島薗進氏のトーク・イベントに参加して、その中でこの本に触れられていたので、以来気になっていた。たまたま新橋駅前の古本市で本書を発見し、迷わず購入した。十二年前に発刊されたものであるが、今では絶版となっており、入手は容易ではない。

第一章では、軍神第一号となった廣瀬武夫中佐と陸軍の橘周太を取り上げる。廣瀬中佐の戦死から五年が経過した明治四十三年(1910)には万世橋駅前に廣瀬の銅像が建立されている。今はその銅像は姿を消しているが、当時の熱狂は推して知るべきであろう。

一方の橘中佐の方について、恥ずかしながら私は本書を読むまでその存在を知らなかった。戦前の国定教科書に廣瀬とともに登場し、「軍神として名高い」存在だったらしい。廣瀬はともかく、橘中佐は今ではほとんどその名前を知っている人はいないだろう。筆者によれば「おそらく陸軍と海軍は対等に扱わなければならないというバランス感覚が、橘を廣瀬と並ぶ軍神に仕立てたのであろう」という。そこには、やや作為的、もっと平たくいえば無理やり軍神に祭り上げられた気配が漂う。

廣瀬にしても橘にしても、敵に打ち勝つ景気の良いものではなく、熾烈な攻撃を受けて死んでゆく指揮官である。戦意高揚につながるような明るい英雄譚ではなく、苦難と涙に縁取られた死出の旅の物語である。彼らは決して作戦を成功に導き、生きて帰って勝利の美酒に酔いしれたわけではない。部下のことを想いながら、壮烈な戦死と遂げるという自己犠牲の物語が日本人の琴線に触れたということであろう。日本人はこの手の物語が大好きなのである。

第二章の主役は、明治天皇に殉死した乃木希典大将である。乃木の殉死直後に発表された政府当局者の発言としては、福原鐐二郎文部次官の自決を肯定するような談話が新聞に掲載されたくらいであった。政府関係者が「軍国主義」や「武士道」を鼓舞するような報道誘導をした形跡はない。そもそも乃木の自決は不意打ちの出来事だったため、政府当局者が意図的に報道を誘導する余地がなかった。従って、事件直後の識者の発言は、規制から自由で活発なものであった。その中には自ら命を絶つことへの批判、殉死という全時代的遺風が西欧からどのように見られるかといった懸念、もっと単純に「馬鹿なことをしたものだ」という意見まであった。

しかし、そういった批判は大衆の称賛の声にかき消された。乃木夫妻の葬儀の会葬者は二十万人ともいわれた。将軍の霊柩が現れると群衆は「敬虔なる態度」を示したが、夫人の柩には「悉くが涙」でそれを出迎えた。夫に黙ってつき従った妻の存在が、より身近に、より悲痛に感じさせたのであろう。

以降、乃木を批判する声はほとんど聞かれなくなり、新聞報道も殉死した乃木を称賛する報道一辺倒になっていった。政府やマスコミではなく、大衆が乃木を軍神に祭り上げていったのである。

第三章では上海事変の爆弾三勇士を取り上げる。今では「爆弾三勇士」と聞いて、何のことだか分かる人は少ないだろう。爆弾三勇士とは江下武二、北川亟、作江伊之助という三名の工兵である。私はかつて芝・青松寺を訪ねた際、爆弾三勇士の銅像に出会って「これは何だ?」と思って調べたことがある。ひょっとしたら西南戦争に関係するものかもしれないと思ったからである。調べてみたら西南戦争とは無関係だったので、爆弾三勇士との関わりはそれっきりになってしまった。本書を読んでみると、爆弾三勇士にも興味深いエピソードが残されていた。

三名の壮烈な戦死が伝えられると、新聞は競ってその詳細を報じた。記事によれば、三名は自ら死を志願し、工兵隊長もその悲壮な決心を涙ながらに許した。三人は全身に爆弾を巻き付けて点火して「帝国万歳」と叫びつつ鉄条網に飛び込んで戦死を遂げたというものである。満州事件以来、将兵の戦死をめぐる美談が相次いで国民に提供され、その中でも爆弾三勇士への反響は圧倒的であった。この頃には映画やラジオ、レコードなどが登場しメディアが多様化していた。爆弾三勇士の映画も新聞報道からわずか一週間で四本が封切られるという超人気であった。

三勇士のイメージが独り歩きしていることに、大いに不満をいだいた人物が、ほかならぬ陸軍にいた。陸軍工兵中佐小野一麻呂は「爆弾三勇士の真相と其観察」と題する本を著し、三勇士の死がどのような作戦で起きたかということから始まり、その中でほかの一組は作戦遂行に成功し、生還したことを明らかにしている。つまり作戦は必ず死に至る「特攻」ではなかったということである。三勇士がからだに爆弾を巻き付けていたというのも誤解であるし、自ら志願して決死隊となったというのも事実に反する。

こうした陸軍関係者の事実に基づいた説得力のある反論に関わらず、爆弾三勇士が作戦遂行のために命を捧げたという物語に多くの日本人は涙し、日本人の伝統的な自己犠牲の精神を体現したものと記憶された。のちに第二次世界大戦の末期に特攻作戦が立案実行された精神風土が形作られる上で、爆弾三勇士の登場は大きな意味をもっていたといえよう。

 

                       

肉弾三勇士の像(芝・青松寺)

もとは「三勇士」であったが、バラバラにされて境内に放置され、作江の像は行方不明に、北川の像は郷里長崎県佐々町三柱神社に移設された。現在、青松寺に残されているこの像は江下武二のものである。

 

第四章は、「昭和の軍神たち」である。現代日本の価値観に従えば、軍神は日本を間違った方向に導いた象徴の最たるものかもしれない。しかし、筆者は「あとがき」で「その後の帰結を知ることのできる後世の高みから軍神を裁きたくなかった。」と告白している。確かに現代の価値観をもって、軍神を生み出し彼らに熱狂する当時の日本人を批判することは容易である。しかし、そこで安易な批判に流れないと自戒する筆者の姿勢は、歴史を学ぶ上で忘れてはならないものだと思う。

本書を読み終えたのは、出張でヒューストンに向かう機内であった。飛行機の中では、どういうわけだか全然眠れないのでおかげで読書が進んだ。ついでにいうと、年とともに脂っこいものは体が受け付けなくなって、連日のステーキ攻めに辟易した。機内食のチーズ・オムレツは半分くらいしか食べられませんでした。やっぱり日本の粗食が自分には合っている、と改めて気付かされた出張であった。

 

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