(天照寺)
養老町は「宝暦治水 薩摩義士ゆかりの地」と銘打って売り出しているが、赤穂義士は知っていても薩摩義士となると全国的知名度は今一つである。養老町では、しばらく宝暦治水を巡る史跡を回ってみたい。
濃尾平野は、木曽川、長良川、揖斐川という三大川が乱流していて、大雨のたびに河道を変え、自然の暴威になすすべもない状態であった。再三の請願に幕府も重い腰を上げ、宝暦三年(1753)十二月、薩摩藩に治水工事の手伝いを命じた。治水工事の規模は、江戸時代濃尾における治水普請中最大であったばかりでなく、三川の分流をも企てた画期的なものであった。
この大工事を引き受けた薩摩藩は、宝暦四年(1754)、総奉行平田靱負以下の藩士を派遣した。工事は濃・尾・勢三国にわたり、九百四十七人という多数の藩士が慣れない治水事業に従事した。数次の出水で作業は思うように進まず、強い幕吏の督責から自刃する者が続出した。疫病に倒れた藩士も含め実に八十八人もの犠牲を伴った。
多大な犠牲を強いられた薩摩藩であったが、その引き換えに土木工事に関する技術や知識のほか、工事の経験を通して市場経済に関する様々な仕組みやルールを習得することができた。四十万両という経済的負担を上回る大変大きな意義があった。その後の薩摩藩における近代化(市場経済の拡大、浸透)にはここで得た経験が大いに活かされたとされる。
天照寺には、薩摩藩士八木良右衛門、山口清作、松下新七の三名が葬られている。この三人はいずれも自刃と伝えられている。(牛島正「宝暦治水」によれば、八木、山口、松下とも病死とされている)。
本殿に隣接して薩摩義士資料館なるものが設けられているが、残念ながら私が訪問した時、シャッターが下ろされていた。
天照寺
薩摩義士の墓
(浄土三昧)
この場所は、もとは火葬場で「浄土三昧」と呼ばれた。治水工事中に病死した二十四人の遺体を一つずつ甕に入れて埋めた場所である。大正二年(1913)に池辺村民の協力で、薩摩工事義没者の墓が建てられ、義士の霊を祀った。その後、昭和三十四年(1959)、集中豪雨と伊勢湾台風による二度の洪水があったため、昭和三十五年(1960)に発掘作業が行われ、この場所から七つの甕が発掘された。昭和四十六年(1971)に慰霊堂が建てられ、遺骨が納められた。なお、七体の遺骨は分骨して里帰りし、鹿児島市の大中禅寺に祀られている。現在、この慰霊堂には遺骨と聖観世音菩薩と義士二十四名の位牌が安置されている。二十四人の大半は、仲間・下人で、いずれも病死であった。病名は明らかではないが、酷暑に加えて特に農家に分宿した下人、仲間は非衛生的な居住環境、劣悪な食生活を強いられた。そのため赤痢が発生し、伝染したものと見られている。
薩摩工事義没者之墓
慰霊堂
(大巻薩摩工事役館跡)
史蹟 薩摩義士役館趾
治水工事は着工から一年を経た宝暦五年(1755)三月に竣工し、同年五月の幕府検分の際にはその出来栄えに驚嘆したといわれる。総奉行を務めた平田靱負は、半周島津重年に工事の完成を報告した後、多数の犠牲者を出し、四十万両の大金を費消してしまった責任を一身に負って、同年五月二十五日の早朝、大巻の地にあった元小屋において割腹した。
平田靱負翁終焉地
現在、大巻薩摩工事役館跡には巨大な平田靱負終焉地碑(東郷平八郎書)や平田靱負像、辞世碑などが建てられている。
平田靱負翁像
宝暦薩摩治水工事顕彰供養塔
平田靱負像
平田靱負辞世碑
平田翁辞世
住みなれし 里も今更 名残りにて
立ちぞわづらふ 美濃の大牧
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