史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

藤沢

2010年08月27日 | 岩手県
 電車マニアの息子が、岩手県の山あいを走るJR岩泉線に乗りたいと言い出したため、今年のお盆休みは岩手県の宮古方面への旅行を計画した。岩泉線というのは一日に三往復しか運行しないという超ローカル線で、それだけに電車マニアの注目度は高い。岩泉線に乗ったというだけで、マニアの間では一目置かれることになるらしい。ところが、お盆休みの2週間前となった七月の末に集中豪雨によって土砂が線路に流れ込み、岩泉線は不通となってしまった。急遽、計画を見直し、息子は気仙沼線やらを攻めることになった。これに振り回される形で、私も気仙沼を起点に史跡訪問の計画を練り直すことになった。それにしても時間がないので、当初訪問予定であった宮古は外さないで、気仙沼周辺の史跡を加えることにした。

 宮城県気仙沼市へは、東北自動車道を一関ICで降りる。八王子から一関へざっと五時間のドライブ。大きな渋滞にも遭わず、ちょうど夕食時に一関に行き着いた。一関の駅前に「松竹」という定食屋があり、何気なく注文したソースかつ丼が非常に旨かった。
 気仙沼へは、一関から更に一般道を一時間以上、走らなくてはならない。人の気配の無い真っ暗な空間をずっとドライブすることになる。翌朝、明るくなってから同じ道路を走ってみると、道の両側には青々とした田圃が広がり、その向こうには深い緑を湛えた山が連なっていた。日本にもまだこんな自然が残っていたのかと感動するくらいの風景であった。
 気仙沼には夜九時に到着した。気仙沼駅前の駐車場で夜を明かす。息子が早朝、五時過ぎの始発に乗るのを見届けると、私は最初の目的地である藤沢町黄海へ向かった。

(黄海地区公民館)


仙台藩奉行坂英力時秀顕彰碑

 今回の史跡の旅の最初の目的地は、三好監物の墓である。黄海の集落のどこにあるのか正覚な位置が分かっていなかったので、取り敢えず黄海地区公民館に車を停めて、そこで地元の人に尋ねることにした。公民館の横に偶然、坂英力の顕彰碑を発見した。坂英力は仙台藩の家老で、戊辰戦争では最後まで抗戦を主張した強硬派であった。戦後、責を問われて斬罪に処された。顕彰碑によれば、藤沢町黄海は、坂英力の采邑地という縁のようである。

早朝六時というのに、この日は夏祭りがあるらしく、たくさんの方が集まって準備をしていた。テントを組み立てている方に訊いてみたところ、その道に詳しそうな男性を紹介してくれた。「この前の道を真っ直ぐ行くと大きな鉄橋がある。それを渡らずに右折。そしてすぐ右折したところに入り口がある。分からなければその辺りでもう一回聞いたら良い」と親切に教えてくれた。そのとおり行くと、そこには「勤王志士 三好監物墓道」と記された石柱が建っていた。

(松柏山斎苑)


勤王志士 三好監物墓道


松柏山斎苑

 三好監物の墓は、松柏山斎苑と呼ばれる墓地の一番てっぺんにあり、まるで王侯貴族の墓のようにお堂の中に祀られている。


僊臺藩参政三好監物墓

 三好監物は仙台藩士。大番士の家に生まれ、安政二年(1855)には出入司兼公義使に抜擢され、蝦夷地警衛にも当たったが、安政六年(1859)、蝦夷地問題で一時閉門処分を受けた。文久二年(1862)には藩主上洛実現に奔走したが、その後藩内の尊攘派と対立して失脚した。大政奉還にあたって藩兵を率いて上洛、奥羽鎮撫総督に従って下向し、会津藩討伐を主張して但木土佐らと対立。主張が容れられなかった三好監物は知行地である黄海に隠遁したが、藩内の反対派は追及を止めず捕吏を派遣したため、慶応四年(1868)八月十五日、この地で切腹した。年五十四。


三好監物の墓からの眺め

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