史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

白石 Ⅱ

2012年10月02日 | 宮城県
(陣馬山)


明治戊辰年閏四月二十日於奥州信夫郡福島駅□□所殺年三十四
奥羽鎮撫総督参謀長州藩士世良修蔵之墓

 前回白石市を訪ねたのは、もう六年前になる。その際、世良修蔵の墓を見逃したことがずっと心残りであったが、今回、山形北部から福島、二本松、本宮の史跡を訪問するに当たって、(とても“ついで”と呼べるような位置関係ではないが)山形県金山町から白石を訪問することにした。

 世良修蔵の墓は、白石市内陣馬山という小さな丘の上に建っている。慶應四年(1868)四月十二日、福島の旅籠金沢屋に宿泊していた世良修蔵一行は寝込みを襲われ、阿武隈川河原で斬首された。世良修蔵の首級は白石市森合の月心院(現在、廃寺)に葬られたが、明治三年(1870)、現在地に改葬され、明治八年(1875)に宮城県により墓碑が建立された。

 世良修蔵の墓には、「明治戊辰年閏四月二十日於奥州信夫郡福島駅□□所殺年三十四」と刻まれている。□□の箇所は「為賊」という二文字であったと言われるが、賊と呼ばれた東北の人が、夜陰にまぎれてこの文字を削り取ったのであろう。


参謀附属長州藩士勝見善太郎
参謀附属長州藩士松野儀助 墓
参謀世良修蔵従者繁蔵

 勝見善太郎は、長州報国隊所属。十九歳であった。松野儀助は世良修蔵の従者で、大島久賀村の農民猶助の二男。十六歳。繁蔵は、世良修蔵の馬丁で、萩魚棚の町人という。いずれも福島で世良修蔵とともに捕えられ、斬殺された。


世良修蔵の墓の現状

 世良修蔵の墓前には、明治九年(1786)の明治天皇の東北巡幸に随行した木戸孝允が寄贈した石燈籠があったが、崩壊してこなごなであった。世良修蔵や従者らの墓も土台と墓石が無残にもずれてしまっている。さらに崩落の恐れもあるため、墓所の周りにはロープが張られていた。

 世良修蔵の墓と対面して呆然とするよりほかなった。東日本大震災から一年五カ月が経過して、白石市内ではほとんど震災の傷跡を実感することはないが、ここはほとんど震災直後の状態のままとなっている。マスコミでは盛んに「復興の遅れ」が指摘されているが、確かに優先して復旧すべきは被災地の住民の生活であり、史跡や墓石が崩れていようとそれに着手するのが後回しにされるのは仕方あるまい。とはいえ、貴重な史跡は、何とかして元に戻して欲しいと願うばかりである。

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