史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「小栗上野介(主戦派)VS勝海舟(恭順派)」 島添芳実著 創英社/三省堂書店

2021年01月30日 | 書評

タイトルに惹かれて以前より読んでみたいと思っていたが、Amazonで取り寄せてみたら評論や歴史書ではなく小説であった。

筆者は、サラリーマンの傍ら小説や随筆などを手掛けている方である。水野忠徳を老中としたり、桜田門外の変に参加した薩摩藩士を有馬治左衛門(正しくは有村次左衛門)としたり、所々誤記がある。生麦事件の被害者が駆け込んだのは米国領事館であって大使館ではないし、ほかにも引っかかる部分がないわけではないが、基本的には両者の確執を写実的に描いている。

筆者「あとがき」によれば、海音寺潮五郎の「西郷と大久保」に触発されて本書を着想したそうだが、西郷と大久保があたかも車の両輪のように共同して幕末の政局を推し進めたのに対し、小栗と勝はどちらかというと幕府にあって反目しあい、最後まで噛み合うことはなかった。根底には両者の政権構想の違いがあった。小栗は飽くまで徳川家を頂点とした郡県制度を構想していたが、勝は徳川家にこだわりはなかった。歴史が語るとおり、徳川政権は崩壊し、天皇をいただく明治政府が政権を握った。そういう意味では勝の構想の方が正しかったというべきであろう。しかし、仮にも勝は幕臣であった。小栗のように三河以来の譜代ではないにしろ、幕府の禄を食むものが、幕府を否定するような思想をもち、薩長に対して討幕をそそのかすような話をするというのは道義的に如何なものだろうか。徳川家に執着せずに外国から侵略されない国を作るという構想は、この時代の誰も持ちえなかった先見性の高いものであった。本来、勝は幕府の外の組織にいるべき人間だったのかもしれない。

文久三年(1863)に木村摂津守や井上清直、小野友五郎らが中心となって提言した海軍増強計画に対し、当時軍艦奉行並であった勝は「五百年かかる」と反対して、この構想をつぶした(ただし、木村の書き残したところによれば、「百年かかる」といって反対したとなっている)。現実には我が国は五十年で列強に伍することのできる海軍を育て、日露戦争にも勝利したのである。要するに、「五百年」という反対理由は根拠があるものではなく、単に自分の気に入らない連中の提案だから、たたき潰したというだけである(惜しむらくは、木村や井上、小野にしてみれば、事前に根回しが不足していたということだろう)。小栗がフランスと接近して横須賀に造船所をつくったのは良く知られている。このとき幕府の命運が長くないことを感じとっていた小栗は、たとえ幕府が滅びることがあってもこれで「土蔵付き売家」にはなるだろうと語ったといわれる。勝の構想は大局をみているが、一方で彼の器量は狭い。小栗と比べればそのコントラストは明確である。明治後、勝は小栗のことを「度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった」と評しているが、度量が狭いのは勝の方であろう。

予てより疑問に思っているのが、上州権田村に隠棲していた小栗を、何故東山道軍はそのことを察知して、尋問もせずに斬首してしまったのかということである。一般には官軍にも小栗の偉名は届いており、危険人物として抹殺を急いだといわれている。本書でも薩長土三藩の将兵間には「第二次長州征討の首謀者」「薩摩藩邸砲撃の命令者」「薩長討滅後の郡県制創設の首謀者」である小栗への憎悪の感情が充満していたと記述されているが、総督岩倉具定や参謀板垣退助以下に幕府の内部事情にそれほど通じた人物がいたとも思えない。この辺りの事情はもう少し調べてみることにしたい。

 

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