史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「坂本龍馬と高杉晋作」 一坂太郎著 朝日新書

2021年01月30日 | 書評

「坂本龍馬と高杉晋作」を一冊にまとめた一冊である。「坂本龍馬と高杉晋作の等身大の二人が動乱の中をどのように考え、生きたか」を取り上げようというのは大学生の頃の著者の処女企画だったらしいが、正直に告白すると、読み終わってもどうしてこの二人を一冊に詰め込まなくてはいけないのか、ピンとこなかった。

西郷隆盛と並んで両雄は幕末の英雄として人気が高い。しかし、両者に濃密な交流があったかというと、さほどでもない。龍馬は筆まめなことでも知られるが、「龍馬・晋作の間を往復した書簡類は、現在のところ一点も確認されていない」という。

両者が酒を酌み交わしてゆっくりと話し合ったのは、慶応元年(1865)十二月のことであった。この時、龍馬の求めに応じて晋作は扇に五言絶句と脇文をしたため贈っている。よく知られているように、慶応二年(1866)一月二十三日、伏見寺田屋で龍馬は捕吏に襲われた。その時、晋作から贈られた短銃で応戦してこの危機を脱したが、おそらくこの短銃は前年末に長州で会ったときに晋作から贈られたものであろう。

慶應二年(1866)六月十四日の夜、晋作が下関の龍馬の旅宿を訪ね、参戦を要請した。これに応じた龍馬は乙丑丸(薩摩藩では桜島丸)に乗って小倉口の戦いに参加した。この時の様子を龍馬は故郷の家族に宛てた手紙にイラスト入りで詳しく報じている。

こうして両者の交流を見ていると、龍馬と晋作の間には相応の信頼関係と同志意識が確立していたのだろうと想像される。

しかし、一方で慶應三年(1867)二月以降、龍馬は下関に滞在していたが、死の床にあった晋作を見舞ったという記録がない。この頃、龍馬が長府藩の同志に宛てた書簡を見ても、晋作の名前は出てこないというし、りょうの回顧談でも晋作の話題は一切触れていない。「無論、史料がないからといって、見舞っていない、気にかけていないとは言い切れない」と筆者はいうが、この事実を見る限り、両者の信頼関係、同志意識というのもこちらが期待するほど濃厚なものでもなかったのかもしれない。

龍馬と晋作というと、自由奔放な「志士」という共通したイメージがある。「艱難を楽しみ、突破することに生きがいを求めるタイプの人間だった」という点も両者に共通する性質かもしれない。尊王攘夷を唱えながら海外に目を向け、経済を重んじ広く人材を求めたという姿勢にも似たところがある。筆者によれば「龍馬は本来政治に係れない草莽で、晋作は根っから政治に係らねばならない官僚・政治家」であり、そこに両者の本質的な違いがある。特に晋作は最後まで長州藩を背負っていた。では、龍馬は脱藩した故郷土佐藩を意識することなく、コスモポリタンとして振舞っていたかというと、どうも最後は土佐藩のことも気にかけていたような気配が濃い。この辺りが後世から見て坂本龍馬の頭の中が見えにくい要因ともなっている。

 

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